代官山蔦屋に辻村深月先生と冲方丁先生の対談を聴きに行ったよレポート(ほぼ全体書き起こし)

2018年9月11日19時から代官山蔦屋書店にて行われた、辻村深月先生と冲方丁先生のトークイベントに行ってきました。詳細は以下のリンクからどうぞ。

【イベント】代官山 蔦屋書店 文芸フェス2018 秋の陣 第二夜:辻村深月×冲方丁スペシャル対談! | 代官山 T-SITE http://real.tsite.jp/daikanyama/event/2018/08/post-633.html

知り合いにも参加できない方が多かったので、メモを元に書き起こしたものを残しておきます。記憶をもとに再構成しているので間違っている部分が多々あるかと思います。文責は私にありますので、「ここ間違っているぞ」とか「ここはマズいぞ」など何かご指摘がある際にはコメントか、twitterID@facet31宛にリプライなど飛ばしていただければ幸いです。


◾️はじめに
司会者の挨拶(蔦屋書店代官山店の文芸担当マムロさん。間違っていたらすみません)
今回でn回目の文芸フェス。(3度目?)辻村さんには毎年出ていただいています。
トークショーの相手はすべて辻村さんからのオファーで出演していただいています。
今回はなんと冲方丁さんというビックネームにお越しいただいています。
まずお二人の馴れ初めを聞きたいと思います。

辻村:「野性時代フロンティア文学賞」の選考委員をこの二人(辻村と冲方)と森見登美彦さんでやっています。選考委員をやるとだいたい「じゃあ始めましょう」といきなり解釈からはじまります。角川書店野性時代」の編集さんから、実際に選考する一年前から、次回から選考委員が変わるので選考委員同士で鼎談を、とオファーを受けて、そこで冲方さんと初めてお会いしました。

ーーお互いの第一印象は。

冲方:昼間のテレビ番組ですかこれ笑

辻村:冲方さんデビュー何年目でしたっけ? 冲方さんはデビューが早いので私は読者として入りました。
私の周りの男子たちが冲方丁が大好きすぎて!ウザいくらいに!
私が冲方さんにお会いした時にはすでに「時代小説の冲方丁」でもあったんですが、
冲方丁が大好きすぎるファンには、上から目線ですみませんが(それくらい好きだということで)、「俺たちの冲方丁」なんだという意識がすごくて。
冲方さんが『天地明察』で賞を取ったときに「俺たちの冲方丁」が時代小説を書いたらこのくらいだよ、と好きすぎるがゆえの上から目線で語られました笑
冲方さんとフロンティア賞で一緒に選考委員をやるといったときに出た反応が「羨ましい」とかじゃなくて、「ああ、俺たちの冲方丁がね」笑。
フロンティア賞選考委員就任時の鼎談のときに言ったのが「男子はみんな冲方丁が好きで、女子はみんな森見さんが好き」。そう言ったら冲方さんが森見さんを羨ましがっていた。

ーー冲方さんはどうですか?

冲方:選考のときに、辻村さんも森見さんもお土産を持ってくる。僕は手ぶらでくるのでなんて出来た人なのかと。

辻村:嬉しかったのが、あるとき、まだあまり出ていなかった高級ポップコーンを食べて感動して、私が選考のお土産にもっていったら、その後にあった受賞パーティで冲方さんに「あんな美味しいポップコーンをもらったら、なにを返したらいいのかわからない」といわれた。私が「そんなの攻殻機動隊のDVDでいいんですよ!」っていったら、次の機会にほんとにDVDを持ってきてくれた。いまベッドの下にありますよ! 関係者見本なので、見本と書かれているのがポイント高い。私の周りにいる「冲方丁が好きすぎてウザい男性」のひとりである夫がDVDの包装ビニールをバリバリと破っていた。

ーー冲方さんは、辻村さんに今回指名されてのご感想はいかがですか。

冲方:なんか嬉しいなあと思いました。作家さんと対談することってあまりないので、小説の話だったりこういうときにどうするのかってことを聴いてみたい。

ーー77年生まれの冲方さんが辻村さんの三つ上でいらっしゃいます。そして19歳でデビュー。冲方さんは若い頃どんな子どもだったんですか。10年間文章修行されてからデビューする方もいるとすると、相当早いですよね。読書少年だったんですか。

冲方:幼少期に住んでいたネパールの学校で、文学の授業があって、なんでも翻訳すればよいという課題があった。
何を思ったのかそこでガンダムを翻訳した。
大使館勤務の方の子どもがまだだれも持っていない日本のコンテンツを持っていたんですね。
そういうものを英語に訳してくれと言われて。ときどき変な質問が来るんですね。「ナウシカキリスト教徒なのか?」「アキラはファーストネームで、金田がラストネームなのはなぜか?」とか。飛び飛びで手に入るので、そのつど解釈をしていた。別の人に同じ質問をされて、いちいち説明するのが大変なので、課題を機に丸ごと書いた。
「ジオンはドイツ系だからプロテスタントなのか」とか質問される。

辻村:宗教と認識が結びついているんですね

冲方:宗教観が感情移入の幅を決めてしまうんですね。日本人が思うよりもずっと強く。
あと、娯楽が極端に少なかったので辞書を読んでいました。読書はあまりしなかった。どちらかというと外で遊んでいた。子供の頃の話を親に聞くと「ブレーキのない猿」だと表現された。

辻村:猿はもともとブレーキがないですよね笑

冲方:あるときデパートに行ったら突然悲鳴が聞こえて、声のする方に行ったら僕がタンスを階段状に開けて、そこを登って落ちたらしい。

辻村:世界を空間で把握してますね。立体で捉えないと階段にしない。

冲方:文芸を最初からやろうとは思っていなかったですね。読書少年でもなかったし。

ーー10代でデビューするメリットはありますか?

冲方:メリット……ありますか?

辻村:私は10代でデビューしたかったです。中学が人生で一番つらかった。振り返ってみると辛いことはない。友達もいるし。ただ、なにもなかったことが辛かった。自分が何者でもない。作家になりたい、小説が書きたいと欲求ばかりはあった。中学生って万能感がすごいから、突然誰か"違い"のわかる大人がやって来て、「君は才能があるからデビューしなよ」と言ってくれるような気になっていて、そういう万能感と自意識があった。中学生作家になりたかったし、高校生作家、大学生作家になりたかった。
※辻村さんのデビュー作は大学時代に書かれていたのものですが、メフィスト賞を受賞してデビューしたのは大学を卒業して就職したあと。

冲方:高校の時に入っていた同好会のテーマが「われわれは何で食っていくのか?」だったんです。高畑勲に手紙を出して、「アニメは儲かるんですか?」と聞いたり。
はじめは絵を描いていた。翻訳する必要がないもの(表現だけで伝えることができる)を選んだ。美術部の部長だったんですか、自分だけ絵が進んでいなかった。これから描くテーマに関しての文章をずっと書いていた。そこで挫折感を得た。自分が好きなものと得意なものが離れている。

辻村:小説に呼ばれていたんですね。

冲方:メリットはあるかというと、社会経験もスキルもないし、大人のいうことも信じられない。ゲーム業界に就職した。学校行きながら漫画原作もしていた。漫画原作をしていたのは父親が亡くなって学費を自分で稼がなければいけなかったので月給が欲しい。社会経験を積まなきゃダメだ、と思って。本屋に行って他の小説を読んで自作と比べていた。自作と比べると自分は圧倒的に足らないと思い、危機感と恐怖心でいっぱいだった。メリットとしては、ものすごくヘコむこと。

ーーヘコむことがメリット?デメリットではなく?

冲方:そこから上がっていくときの経験値を考えるとメリットです。デビュー直後は膝を屈して「もうだめだ……」と思うばかりだった。

辻村:えー!! 冲方さんそんな感じだったんですね。私「天才かよ〜〜」と思って『マルドゥック・スクランブル』読んでました。

冲方:『マルドゥック・スクランブル』なんて7社から断られてますから笑

ーー逆に年を経てデビューすることのメリットはあるんでしょうか

辻村:年を経てデビューされた方で思い出すのは、ミステリ作家の深木章子さん。弁護士を定年で辞められてから小説を書いた方で、10年前に好きだった本格ミステリが現代の技術で書かれている。そんなことをされると太刀打ちできない。『ミネルヴァの報復』が出たときに対談させていただいたのですが、そのとき私が言ったのは「深木さんのミステリには聖域がない」ということです。ふつうなら主人公は死なない、子供や女性は傷つかないといった「聖域」があるが、深木さんの小説では子供もひどい目にあう。そう言ったら深木さんは、現実の弁護士をやっていると現実には「聖域」がないことがわかると言われた。デビューしたのは遅くても言葉が自分の中にあるのだと思う。(歳を経て)その年代で書かれるからこその良さはある。

冲方:デビュー直後に編集者から「君はこれで勉強したまえ」と出されたのが隆慶一郎※さん。作家活動をされていた、たった五年間であれだけの作品を書いた。自分には厚みがないと打ちのめされた。自分の強みとか、密着している感情など、自分のカードを大事にするしかない。年を経てデビューした方は自分の強みを知っている。軽やかでもなく重々しくなく、整然としている。「だってこうでしょ。しょうがないじゃない」みたいな(説得力のある佇まいがある)。
隆慶一郎。作家。1923年生まれ。84年に61歳で小説家としてデビュー。それ以前は長く脚本家として活動していた。隆慶一郎名義の代表作に「一夢庵風流記」(後に原哲夫により漫画化される「花の慶次」の原作)、「影武者徳川家康」など。89年に急逝したため、小説家としての活動期間は五年ほど。

辻村:若い時に正しいと思って書いていた自分の考えが、変わることもあるってことを来年デビュー15年を目前にしてわかった。年を経てデビューした方は地層のように重ねてきてのブレなさがある。

ーーデビュー時から振り返って、自分が現在のような作家になっていると予想していましたか? 冲方さんはジャンル横断的で長さにも幅があります。小学生みたいな質問で恐縮ですが、「うぶかたせんせいはなんでこんなにいっぱい書けるんでしょう?」

辻村:今のはひらがなで書かれてましたね笑

冲方:句読点がなくて読みにくい笑

冲方:デビューしたときに計画を立てるわけです。自分には完成させた小説は書けない。小説には主題・物語・世界観・文体の要素がある。二年くらいで二個ずつクリアするとして、まず主題と世界観が書けたらいい、と思っていたら世界と主題をクリアするだけで10年かかってガッカリだなと。
それに、デビューした頃によく言われていた「活字離れ」というものを確かめるために四媒体を渡り歩いた。本当に活字から離れていたら作家なんてやってる場合じゃねえ!と思って。これもそうでないとわかるまで10年かかった。

辻村:すごい真面目ですね。体験派。

冲方:体験しないとわからないので。もっと早くに課題が片付くと思っていた。焦っています。

辻村:私が今回冲方さんをご指名したいと思ったのは、まず最初のフェスの時は司会のマミヤさんに道尾さんを指定され、その理由は「仲がいいだろうから」だった(このあたりうろ覚え)。次は誰がいいか、と要望を聞かれた時に『十二人の死にたい子どもたち』『かがみの孤城』が書店に並んでいた。アレ(『十二人の〜』)を書かれてしまったことで冲方さんに悔しい気持ちがあった。冲方さんはこれだけ色んなジャンルで書いていて…。私は自分がミステリが好きで書いていて、人が死ぬような話でなくてもミステリの筋肉を使って書いていると自負している。人が死んで謎を解くという本道のミステリに憧れがあって、書けなかった。そういう自分が読みたいミステリを冲方さんに書かれてしまった。もちろん面白かった。そのことをお会いしたときに伝えたら、「辻村さんに言われたら嫌な汗が出てきました」と言われた。冲方さんでもそんなことを言うのかと驚いた。
今回の冲方さんの新刊(『破蕾』)も夏休みに行くハワイで読みます、と周囲に行ったら「ビーチで官能小説読むの!?」と驚かれた。べつにビーチで読むわけじゃないんだけど…笑。官能小説なんだけど冲方さんの小説。物語に厚みがあって、江戸のことがよくわかる。「曳き廻し」ってこうなんだ!って笑

冲方:「曳き廻し」はああいう感じらしいですよ。調べるのは楽しかったですね。(『破蕾』は)ちゃちゃっと書けるなら気にしなかったんですけど、なにやっても書けなかった。「できない」っていうのが心を蝕む。誰かと話しているときに「でもお前書けないくせに」と言われているような気がしてしまう。弱点を潰したかったんですね。そこにあるテーマがあるはず。(官能小説なら)エロスとタナトスを描きたかった。そうでないと「時間がなくて〜」とか言い訳をしそうで嫌だった。

冲方:『十二人の〜』はSF大賞をとったときにアイディアを思いついたけど、そのときには掲示板しかなかった。背景の違う10代の子供が集まる手段がない。SNSが発達してきて実際にそういうことが起こり始めた。説得力が増してきたので書けた。

ーー辻村さんも本格ミステリの出版が控えています。デビュー作の『冷たい校舎の時は止まる』では同世代の集団、実写化もされた『ツナグ』では家族物など、多彩に書かれてます。作品を書くときはまずテーマありきなんでしょうか?それとも、例えば「本格を描きたい」という欲求と依頼が合ったときに書くのでしょうか。あるいは依頼が来てから、それに合わせた題材を考えるのでしょうか?

辻村:そのときどきによるんですけど、その版元さんのカラーを考え、編集者さんが喜んでくれそうなもの。『青空と逃げる』をやっているときに、編集さんに「どんな作品がやりたいか」と聞かれて「家族物はたくさんやったので次は婚活とか考えてるんですよね」といったら「……もう少し考えましょうか」と言われた。ああ、やりたくないんだ笑と感じた。次に週刊朝日の女性編集さんに「婚活がやりたい」と伝えたら「いいですね!」と乗り気になってくれた。伴走してくれる編集者が楽しんでくれるものがいい。

冲方:だいたいテーマとか、こういうものがやりたいというストックはつねにある。一時期修行をしないと、と思って、依頼で言われた通りのものを書けないと、と思って『もらい泣き』の連載をした。人を殺さず、一話完結で……手足を縛られるような気持ちになりながら書いた。やりきったら「おれできるな!」と思った。四年くらいやらされて苦しかった。それまでは編集者に依頼されても依頼されたものが出た試しがない。デビューしたてのときに「剣と魔法とかわいい少女」モノを150pで、と依頼された時に書いたのが2500pの長編。「かわいい少女とマスコットで〜」と依頼されて書いたのがマルドゥック。あれも50pの依頼だった。テーマを描くのが大事で、物語の枠組みとかどうでもいいと思っていた。枠に収まらない、人の言うことを効かない、自分が正しいと思うものしか出さない。だから依頼とそぐわないものしか書けなかった。

ーー文体修行について。文体はあえて作っているのか、そうではないのか。

辻村:私はあんまり意識していない。自然とそうなるように書いている。

冲方:意識するとギクシャクしちゃうから自然にしますよね。

辻村:デビューしたての小説を読んだら、そんなに頑張んなくていいのに、と思うくらい変に熟語を使ったり、難しい熟語を選んだり。最近はふつうに書けるようになった。小学生を書くときに「小学生はこんなこと言わないのでは」という議論があるが、「大人の私が小学生の教室に入っている」という意識でやってみたら気張らなくなった。でも『かがみの孤城』から婚活モノを書いたら(婚活モノのほうが?)「改行少な!」って思った。

冲方:文字ヅラってありますよね。

ーー新人の審査をすることについて。選考委員の難しさ。

辻村:フロンティア(野性時代フロンティア文学賞)はすごく楽しいです!綾辻さんとあったときに、乱歩賞でも選考委員をやらせていただいているので、「最近選考委員やっているよね」と言われて、「フロンティアはすごく楽しい」と伝えたら「だろうね、楽しそうだもん」と言われた。森見さんと冲方さんの読み方が違うんですね。三人とも推している作品が違う。ただよく聞いてみると似た印象は持っているんです。
選考中、度肝を抜かれたのが、冲方さんがいきなり「この作品には悪いところが三つあって……」と言って笑。褒めないんですね。あと、すごく楽しいのが、冲方さんは「この作品はこういう導入だから、こういう展開になるだろうと思ったんだけど……そうはならなかった」と評価することがあるんですが、その「こうなったら楽しい」という構想がめっちゃ面白いんですね。

冲方:辻村さんは審査員として正しいことを言う。「この作品は、いまこれを読みたい読者がいるはずだ」と読者を含めて評価する。僕はどうしても単体で完成度を高めたくなる。「こいつはあと5回くらい書き直したら面白くなるな」とか。

辻村:ほんとスパルタ!

冲方:こっちにおいで、と。こういうふうに叩くとこうなるぞ、と。実際に選考作を書いた人がそうするとは思わないんですが。作品を読む読者については「その人がどういう人生を送るかわからないからいいや」と突き放しちゃうところがある。

辻村:あと冲方さんは他の媒体でもお仕事してるからか、「この小説だとゲームの方が向いている」とか「この人はゲームライターになれるよね」とか言うんですね。

冲方:批判しているわけじゃないですよ笑

辻村:森見さんは「この小説はおれが守る」といってトイレに立てこもることがある。そうなると、「出てきてくれ!」「こんなことしてどうなるんだ!」と二人(辻村・冲方)がトイレのドアに向かって説得する。

森見さんは「二人がどうしてもわかってくれない!」と笑
それが評価の焦点になることがあります。「いまのは立てこもりポイントですか?」と森見さんに聞くと、森見さんが「すごくこれを推したいけど、立てこもるほどではない」と答える。笑

辻村:選考委員を務めてから、二年続けて大賞が出なかった。出ないときは審査している方もつらい。3人とも大賞を出したいが、何かに欠けているとか、以前大賞を出した人に比べるとどこか落ちるとか。意見が違っても二人は信頼できる。この中に書いている人がいたら他に回す前にこの発言を思い出してほしい。

ーー応募作の傾向はありますか?

辻村:ねらいが見えすぎてしまっているものがある。「これは頑張っている人に対する応援です」と概要に書いてあると、「あー…」と思う。狙いがあるんだあと思ってしまう。自分が小説を評価するポイントは、「いまこの作品を必要としている人がいるか」と「本人がやむにやまれぬ衝動で書いているか」の二つ。

冲方:そのひとが作品を書いた理由が伝わってくるといいですね。テクニックはあとからでもついてくるじゃないですか。「これを持ち続ければ30年やっていける」というエネルギーを作品に感じるとキター!と思う。
前に人に教えられなきゃいけない、と思ったことがあって、小説の書き方本を100冊くらいamazonで買ったことがある。なかにはひどいですよ。「こう書けばいい!ボーイミーツ」とか。穴埋め問題みたいになっている。でも、穴埋めをしている最中に他の穴も空けたくならないような人は、わざわざこんなつらい仕事しなくてもいい。追い込んじゃうくらい、「形にしたい」「形にしないとおれがおれでいられなくなる」という人じゃないと。それがあるかないか、で言うと、あまり(我を)見せてこない綺麗な感じのものが増えてきた。もっと荒っぽくていい。

辻村:自意識が見えているもののほうが可愛がれますね。

ーー以前登壇された宮内悠介さんの初代編集が、「ウェルメイドな作品じゃないと一次審査は通らない、しかしぶっとんでないと最終審査には至れない」と言っていた。宮内さんは最終狙いでぶっとんだものを書いていて一次で落とされ続けていた。綺麗/ぶっとんでいるは相反するのではないですか。

冲方:下読みをしている人もたくさん読んでますから、綺麗なものは上に上げやすい。どう判断していいのかわからないものは上げられにくいが、一旦上がっていくと、どう評価していいのかわからないからしぶとく残りますね。

ーー今までは選ぶ側としての質問でしたが、選ばれた側としての質問です。二人とも大変な賞ゲッターですが、いまだから開かせる賞の裏話などはありますか。

辻村:考えてこようと思って、質問を見たときにこれを言おうというのがあったはずなんですが…思い出せない。

冲方:裏話……。表からすれば全部裏話なんですがどれが面白いのか……。

ーー選ぶ側として本屋大賞が気になります。みなさん受賞スピーチでは特別な賞だといいますが、選ばれた側として本屋大賞はどんな感じなんですか。

冲方本屋大賞を取ったことでやっと自分を褒めていいと思った。作家と名刺に入れるようになった。

辻村:いい裏話じゃないですか!

冲方:作家ですと言った責任も引き受けようと思いましたね。何か言われたら作品で返すと。

辻村:冲方さんが本屋大賞とってみてどう思ったのかは私も気になっていて、質問しようかと思ってました。私は本屋大賞は縁がない賞だと思っていました。ノミネートは何回かされていたんですが。
直木賞を取ったあとに次にどんな作品を書いていこうかとおもう時期があった。直木賞のときは、編集者が待ち会をしてくれるんですね。その話を聞いたときには大の大人がプレッシャーに耐えるために集まるなんて…と思っていたんですが、当日になるとそばに誰かにいてほしいし、編集者も作家をひとりにするわけにはと集まってくれる。あれは今考えると青春だった。
そのあと、『島はぼくらと』で本屋大賞にノミネートしてもらって、一年やったことを見てくれる人がいるんだ、と思って励みになった。
本屋大賞は、全国の書店員さんという自分の力ではなんにもできないほどの数の人たちが推してくれる。実際に受賞したらこんなに嬉しい気持ちになるとは思わなかった。本屋大賞が好きなのは、各版元さんたちの営業さんたちの賞でもあること。受賞した社の営業さんたちは各社楽しそうにしている。本を売ることは集団作業。1位は別格で華やかだと思って、いつも見ていて別世界のことだと思っていた。でも、自分が壇上にあがってみると、いつも良くしてくれている書店員さんたちの顔があった。華やかに見えたのは近くにあるものだったんですね。

冲方:書店さんの存在が近くに感じますよね。

辻村:思い出した!本屋大賞って既に受賞した人たちがすごい優しいんです。三浦しをんさんとR-18文学賞(新潮社)で一緒に審査員をやらせていただいているんですが、本屋大賞の話を聞いた三浦さんが「すごい忙しくなるよ」と言ってくれた。三浦さんすごくお優しいので、わざわざメールで「忙しくなるって言ったけど、当時のスケジュール帳を見直したらライブに行きまくっていたからそうでもないかも」と笑
それもエネルギッシュな三浦さんらしいのですが笑
受賞式の際に裏で待っていたら、宮下奈都さんからです、とカードをもらった。「投函するとその日のうちに届く美味しいクロワッサン」の券もカードのなかに入っていた。湊かなえさんにもニューヨーク土産をもらった。今年は自分もプレゼンターになって優しくしたい。昨年までは話題になっている本があるとライバルとして捉えていた。今年は自分が花束を渡す番。

冲方:そういえば自分も湊さんに花束を渡されるときに大変なことになるよと言われました。

ーー冒頭で昼間のテレビみたいだと言われた手前、たいへん恐縮なのですが実写映画『天地明察』主演の岡田准一さんと宮崎あおいさんが結婚されたときになんと言われましたか。

冲方:ある新聞の記者に「おめでとうございます」と言われて「何言ってんだコイツ」と思った。そもそも家にテレビがないので知りようがない。
あっ!そういえば(岡田准一宮崎あおいは)夫婦役でしたよね。(ここで初めてピンときた冲方に会場笑)
おめでとうございます、とここにいないけどね。
岡田さんも真面目な方でね。現場にリュックサックいっぱいに本を持っていて、ホテルの部屋に帰ったらダンスの練習。そういう仕草を見ているとお幸せに…と思う。
幸せだよね?

ーー自作でメディアミックスしたいものは?

冲方:そんなの全部ですよね。

辻村:私はアニメ業界への憧れがすごくて、
ハケンアニメ!』という小説を書いて、各所に取材に行ったので、「これはもう本になったときに!」と期待していたら……笑。今日も待ってます!
アニメに対して憧れがあるんですよ。実写より、アニメになったら…!とデビューからずっときている。デビュー作の『冷たい校舎〜』が漫画化したときに「これは!」と思ったんですが…。

冲方:心の中ではメディアミックスは嬉しいんですけど、そう簡単には映像化できないぞ、という小説家としての自負があるので、ハードルでありたい。映像業界のために小説があるわけではないので。

ーーお互いについての質問。

辻村:二つできました。まずテレビがなくてどうやってアニメのチェックしているんですか?

冲方:放映時にチェックしてたら手おくれですから。順調なら3、4ヶ月前にチェック用の映像が届く。順調でないときは一週間前。そのためにパソコンを買ったくらい。60GBくらいのデータを落とさないといけない。脚本、絵コンテと何度も同じもの見てるので「あとはよろしく」と。そうしないと無報酬でいろいろやんないといけない。脚本料しかもらってないのに。

辻村:二つ目は集団でものを作ることについて。『ハケンアニメ!』の取材しているとアニメはなんて大変なんだと思った。その点個人の小説は楽。心構えの差について教えてください。

冲方:どのパートを請け負うか、責任の違いですよね。小説ならかかわるのは自分と担当編集と、3人4人。関わる人数が少ないと役割が明確になる。漫画もそうだけど、集団になるとできるやつが全部やらざるをえない。

辻村:できない人のことはどうしたらいいですか?

冲方:それは、うーん。ある時期が過ぎて「出来ない」ってことになると、崩壊する手前で食い止める。もう戦場ですよ。やれる人がやる。弾があるやつが撃つ。とくに日本の映像業界はお金と時間もない。だんだん役割分担されていく。自分がやらないと後ろにいる人たちに影響が出るというプレッシャーがある。
「自分にやりたいこと」と「他の人のやりたいこと」の折衷案。折衷案ほどつまらないものはないのでどうにかして押し切る。たいてい五分五分ですね。100点を目指してようやく50点が出せる。やりたいことの半分もできたら上出来。
ある人に任せようとしたら突然来れなくなったり、過労で亡くなっていたりしてスケジュールが崩壊する。小説は穴が開いても雑誌に穴が空くぐらい。ぐらいって言っちゃうダメだけど。アニメは穴が開いたら罰金三千万ですから。だから総集編とかでなんとか埋める。

辻村:えー!!!取材したけどそれは教えてくれなかった……。

冲方:一応あってはならないことだから言わなかったんじゃないですか

◾️冲方から辻村への質問

冲方:ざっくりとした質問をしてもいいですか?
どんな風に書いてます? たとえば朝起きて、どんな風にスイッチを入れるか。日常生活。どうやって1日の仕事を終わらせるか、ピリオドをつけているか。

辻村:私はものすごいちゃんとしたスイッチがあって、子供が二人いるんですけど、「保育園に行っている間」という明確なスイッチがある。あさ8時から夕方5時6時まで仕事する。打ち合わせもその時間のなかで済ませる。その時間になったら、どれだけ仕事のことが気になっても気にしないようにする。このサイクルにたどり着くまでに失敗があった。以前週刊誌の連載をやっているときに、編集者からすこしチェックしてもらえないかとFAXが送られてくることがあった。それで「すこしなら」と仕事をして、終わったと思ったら子供が裸でテレビみていた。ウワッーーー!!となって。夏場でよかった。こんなの絶対ダメだと思って、やらないと決めた。
私は子供と一緒に9時に寝るんですが、朝4時から子供を起こす7時まで何をしてもいい時間にしている。本を読んでもいいし、溜まっているアニメを見たり、仕事をしてもいい。司会のマムロさんは朝シフトなので、早朝に打ちあわせのメールした。(マムロさん、「そうそう、私は朝4時からここにいるんですよ」と応える)。編集者のみなさんは夜型なので、夜に仕事をしている編集者と一瞬邂逅する。辻村さんいつまで仕事しているんですか、と聞かれると「私はいま起きたところです」と。
私も前は夜型だったので、一つの表現で悩むと夜通し悩んでいた。いまは完全な完成形じゃないけどあれでいいや、と送ってしまう。完成版でなくても朝には編集者からのフィードバックが来るので、それを元に修正できるから以前のパターンのより良くなっている。
一方で、一気に書けないというもどかしさがあった。『かがみの孤城』の後半はほとんど書き下ろしなんですが、「今から〈みんなのことを助けに行く〉のに、おっ、お迎えにいくのか……」って笑
(会場笑)

冲方「なるほど、やっぱりタイムスケジュールは大事なんですね」

 

ーーそろそろ終わりに近づいて参りました。
講談社さんが下に設営にきていまして、おふたりのサイン本もご用意しています。
足早にご紹介したいと思います。
辻村先生の『噛み合わない会話と、ある過去について』は本が閉じたときが始まりです。
『破蕾』は、冲方さんの大江戸官能小説。人生のあらゆること、ふがいなさかなしさが官能によって乗り越えられていくさまを描いています。
辻村さんの『きのうの影踏み』はフレッシュな怪談小説。怪談はどこか読んだことがある気持ちにさせられるのですが、これはフレッシュに読めます。
冲方さんの『はなとゆめ』。これは枕草子を描いた清少納言の話です。日本初のエッセイとして知っている方も多いと思いますが、日本初の編集者が出てきます。この人のことが私は好きで、清少納言はこの人なしでもコツコツ文章を書けたのでしょうが、「読まれる喜び」を清少納言に教えたのがこの編集者の存在なんですね。

ーーおふたりの新刊の宣伝、今後の活動について。

◾️辻村告知
辻村:来年の3月に婚活小説が出る。初めはそうでもないんですが、だんだん婚活のことに入ります。タイトルが『傲慢と善良』。なんでこんな怖いタイトルにするんですか、といわれたんですが、私はジェイン・オースティンの『高慢と偏見』が好き。『高慢と偏見』には当時のイギリスの結婚のことについてこれでもかと書かれている。映画の時、男はプライドを捨てられない、女は偏見が捨てられないというコピーがつけられていた。それを読んで、納得した。現代において結婚できないのは傲慢さと善良さにある。なぜ善良さなのかは、本を読んでもらえればわかります笑

冲方:やっぱり怖いじゃん〜〜

辻村:映画にもなったツナグの2。yomyomにツナグ2の最終話。来年に本になります。

◾️冲方告知

冲方:何を言おうかと思ったらアレも言えないしコレも言えないし。マルドゥックアノニマスの4巻を来年2,3月くらいに出します。全三巻だと思われている。全然まだこれからいくぜー!って感じなのに、次で最終巻なのは残念ですが…と感想をもらった。四巻目が出ます。
年末に麒麟児が出て、オール読物で時代連作短編が来年頭くらいに。
言えないものがちょくちょくあるのでそのうち公式が発表すると思います。

 

〈書き起こし、以上〉

 

みちきんぐ「新妻編集月本(旧姓)さん」(単話)の感想

快楽天」2018.3月号掲載のみちきんぐ『新妻編集月本(旧姓)さん』をkomiflohttps://komiflo.com/)で読んだ。

これがめっっちゃえっちでよかったのと、技巧的にも素晴らしかったので感想を書いておく。
ツイッターで書こうとしたけど発売日なのでやめておいた。komifloはいいぞ。

あらすじは以下。
売れっ子エロ漫画家と結婚した編集者の月本さんは、夫が多忙なあまりご無沙汰な日々が続いていた。そこに同僚の女性編集者が月本さんの夫に「唾をつけてある」と吹き込み、奮起した彼女は夫をその気にさせるために夫の漫画に出てくる嗜虐的なヒロインに扮して……という内容。

■ヒロインの多面性が描かれているすごくいい作品

はじめに書いておくと、この漫画の良さは、ヒロインの「顔」(キャラ)が物語内で数度変わることにある。

(1)日常的な姿(地の顔)
(2)ドSな痴女を演じた姿(キャラの顔)
(3)痴女の演技が崩れつつプレイを続ける姿(キャラと地が混ざった状態)
(4)痴女の演技がなくなったことで本音が露呈した姿(キャラの仮面も日常の仮面も捨て、夫の妻になった状態)

上記のようにである。ありていに言えば夫に対して本音を言うことができない妻が、キャラクターの仮面をもちいることで本性を出し、ついには仮面も捨てて夫と気持ちをぶつけ合うに至る過程を描いている。

順に追っていこう。
まだ未読の諸氏は快楽天を読んで一息ついたあとにでも読んで気持ちを共有してほしい。

(1)登場時の月本さんはスタイルは良いが自分に自信のない女性として描かれている。
(2)だが、そんな彼女がシーンの移り変わりとともに扇情的なサディストヒロイン=『佐倉さん』として再登場する。"あの月本さん"を知っている読者たる私たちは扇情的な言動と格好に劣情を煽られてしまうのである。

(3)しかし月本さんによるサディストの演技は長続きせず、恥ずかしがりながら漫画に登場した痴女プレイ(足コキ)をするものの、すでに痴女の趣はなく地の顔が出てきてしまっている。

漫画の作者である夫がここで、
「『佐倉さん』ならここは嗜虐的に主の性器を虐める足コキシーンだが…」
「演じきれずに段々と…地の優しさが滲み出てきてしまっている…っ!」
と、月本さんの演技が不完全になっていることをモノローグで指摘するところが良い。

元ネタを参照することができない読者は、モノローグの情報と補足的に描かれる『佐倉さん』の姿から予想することでしか月本さんの演技の不完全さ(キャラとの間にある差異)を伺い知ることができない。「正反対ぶり」と「演技の不完全さ」が見えることが重要なのだ。月本さんが正反対のキャラクターを演じようとして破綻してしまっていることが描かれることで「新妻が頑張って夫を性的に振り向かせようとしている」本作の強みが存分に出ている。

「『佐倉さん』はこんなキャラではない…」「だがこれは…これは凄く——っ!」と夫は足コキで一度果てる。
(この直後、精をかけられた月本さんのお顔がとてもいい)

(4)そう、「『佐倉さん』はこんなキャラではない」のだ。

このあと、演技によって自分の気持ちを夫に気づかせることに成功した月本さんは地の状態のまま夫との和合を果たす。だがそこには初めにいた「地味な新妻」も「ドSな痴女」もおらず、キャラを演じることで自分の気持ちと快楽に正直になった「地の地の顔」になった月本さん——夫の妻としての彼女の顔がここで初めて現れるのである。
「佐倉さん」を演じるコードから外れた月本さんは、すでに「佐倉さん」ではないため「キャラ崩壊」している。加えて「エロ漫画ヒロインの佐倉さん」とともに「編集者としての月本さん」の仮面も捨てられ、彼女はついに「乱れている妻」になってしまったのである。これは大変なことだ。いかにもな痴女がエロいことを徹底するのではなく--それはそれでいいのだが--痴女の演技が途中で破綻することによって「優しい性格で恥ずかしがり屋のままなのにプレイは淫乱な妻」という、催眠モノにはない和姦トランスというべきシーンが描かれている。

■余談。『佐倉さん』は典型的な痴女キャラクターなので「キャラが薄い」。しかしこれが有名作のパロヒロインなどであればヒロインの印象を食ってしまうので、このバランスが素晴らしい。(顔や髪型はほぼ変えずに衣装と表情の違いで差別化しているのでヒロインのバリュエーションとして見られ、ヒロインに集中できる)

あとサブヒロインもめっちゃかわいい。ちゃんとえっちなシーンも用意されてるのがありがたい。夫婦が「本音」を伝え会った後にサブヒロインである同僚の「本音」が語られる構成も美しい。

■まとめ
本作は、ひとつのキャラクターのなかにさまざまな形で複数の顔が覗かせる様子を楽しむお話だ。これがすごく現実の女の子っぽくてよく、単話で描かれているところにも筆力を感じた。

現実の性交渉のみならず日常的なコミュニケーションのなかでも人間は(SMプレイ以外でも)演技的に振る舞うことがある。それがすべてロールプレイ(演技)なのかといえば一概にそうとは言えない。コミュニケーションが密になると、相手を喜ばせようとする演技的な顔(ネタ)と飾らない地の部分(ベタ)が入り混じった非日常的な顔が生まれることがある。そしてそういうときにこそ自他の輪郭が曖昧になるような強烈な快楽が生まれるように思う。みちきんぐ先生のめっちゃえっちな本作を読みながらそんなことを考えた。

 

FGO第2部序を終えて

ふせったーに書こうとしたらやけに長くなってしまったのでこちらに書いておく。

第2部序と特番を終えての感想です。(当然のようにネタバレ)

 

昨晩は第2部序開放からこっち、情報が多すぎて混乱し、特番のテンションが乱高下したこともあって疲れた。ただこれまで考えてもいなかったほど大きな風呂敷が広げられて興奮したまま年越しを迎えた気がする。そんな気がする。騙されているのかもしれない。

それはそれとして第2部のことを考えてみる。

以前自分で抑圧された名もなき人類史が怨嗟の声を上げる「人類史オルタ」が敵として現れる漠然とした展開を妄想していたことはあるけど、それだとあくまで人類史のif(第1部の射程)を抜けきることができないから、今回のように人類が選びとってきた歴史を「汎人類史」と定義した上で、別の(今の人類でないものたちによる)可能性が牙を剥き、星の座をめぐる覇権争いとして演じることにしたのは上手いと思いました。奈須きのこ伝奇SFの真骨頂だなあという気がしている。

これはいわば「星」の潜勢力なのであって第1部で書かれていたような人類史の潜勢力ではない。わかりやすく物語のレベルが一段階上がっている。この違いは大きいと思う。

その意味で哲学・現代思想的にはメイヤスー(『有限性の後で…』)的な「この世界は全く別様でもありうる」という世界像を思い起こさせる。

メイヤスーの著述は、私たち人類が科学的探求によって得てきた宇宙観を「事実」とした上で、近現代哲学的な人間の認識とモノの世界が強く結びつけられた思考を相関主義的思考と批判しながら、相関主義の外側にあるはずの(科学のように世界の基盤に根ざしていると思われている)「事実」すら、どこかで確率的に変更される可能性があると考えるものだった。FGO第2部で示された世界観はこのような思考の延長にあるものだと考えることもできる。

第1部では、初め人類の積み重ねてきた人類史のif(人類史の可能性)が語られ、やがてそれは神の時代(魔術世界)と決別した「人間の歴史」として再帰的に書き直されることになる。人類は神々という親元から離れ、魔術という庇護のない世界を生きることにしたのだ、と。魔法や魔術の実在を謳いながら、そうした神秘に対して人間の意志を上位に置く姿勢はFate / stay nightでも共通していた。

このように第1部で書き出された人類の歴史は、第2部で「汎人類史」と呼ばれることになる。この言葉は人類史を相対化しており、あきらかに人類史が辿ることのなかった「星の歴史」全体を意識した書き方になっている。

いまだ語られることのない星の歴史全体を意識すれば、そのなかで人類史として部分的に定着してきた「事実」は相対化され、星の座をめぐる物語は語り直されうるものとなる。

第1部が人類という個の自我構造が生み出したif(やり直し)の物語だとすれば、第2部はそれすらも相対化して人類種に対して他者として存在するもの(忘れられた星の歴史や滅びてしまった他種の怨嗟)についての物語が主題になるのだろう。それは奈須世界では人類より上位に存在する星の可能性を問うものだ。

これらを踏まえて第2部の着想を書き出せば以下のようになる。人類の能力ではたった一つの歴史を知ることしかできないが、実は(汎人類史とは違う)この星が辿りうるすべての歴史を反映させた「汎歴史」──という、人間の認識を超えて存在する「物自体」が存在する。また、汎歴史(今まで人類が認識できなかった世界全体)の全面化は、とりもなおさず、第1部で乗り越えたはずの外部性・超越性(他の可能性や神秘の力)がふたたび別の形で人類の前に姿をあらわすことに他ならない。

汎歴史の登場によって現生人類の辿った「事実」としての人類史(神秘なき人間の世界)は相対化され、この世界は一夜にして別様に変わりうるものになってしまった。いや、すでに複数の原理や価値観が覇権を争う世界に変わってしまったのである。変更可能になった世界においてメイヤスーは神による全面的な救済可能性を語るが、奈須が語るのはそうではなく、人と神を交えた神話の再演だ。この世界を再創造すること。第1部でゲーティアと渡り合ってきたような異なる価値観同士のぶつかり合いが(おそらく)これより7度以上も行われることになる。星の座をめぐる神話がふたたび始まろうとしているのだ

(世界が再神話化する局面に神秘を秘匿することを目的とする聖堂協会が現れ、その代行者として人間の倫理を相対化してしまう言峰綺礼が出張ってくるのは納得ができる。)


以上、第2部序と特番を終えての感想でした。

Fate-EXTRA-月姫(や鋼の大地)などで今まで断片的に語られてきた「タイプ・ムーン」(あるいはタイプ・アース)の物語の到達点として、今作では奈須ワールドの視野を広げきってくれたらファンとしても嬉しい。

身体と魂のファンタズム──「アカーシャの舷窓」感想。

読み終えた!!!
こちらは前記事で感想を書いた「心造少女」の作者・妹尾ありかさんのC92新作で、同一世界観の短編集です。

www.pixiv.net


これは非常に重要なことですが、装丁が可愛いです。
ただし内容には対応していないため警戒が必要。

詳しくは後述しますが、前評判どおり第一編「海の蜻蛉、妖精の幻」が短編らしくシンプルに構成されていて読後の満足感が高い。他が悪いのではなく短編というジャンルを考えると突出して出来が良い、という感じ。

以下ネタバレ。

 

収録作は三篇。
「海の蜻蛉、妖精の幻」
「アカーシャの舷窓」
「ブルースフィア・サブマリンショウ」

 

・「海の蜻蛉、妖精の幻」
・あらすじ
 ホオズキヒイロは、軍事組織に所属せず社会生活に入ったはずの艦娘が所属施設から行方不明になる「神隠し」事件を追っていた。ホオズキによる潜入捜査も不発に終わり、彼女たちは復元管理区域に足を踏み入れることになる。そこは深海棲艦上陸や妖精炉の暴走によって被災し、妖精由来技術(微細粒子)による土地の復元が行われている場所だった。物騒な連中が身を潜めるなら絶好の場所である、と同時にホオズキにとってはどこか薄気味悪い感覚を覚える場所であった。ホオズキの予感は当たり、彼女の意識はいつの間にか幻想へと引きこまれてしまう……。

 ホオズキが復元管理区域で反芻する「ーーお前たちは陸の上では生きられない」という声は、提督による呪いの言葉だ。悪性変異した微細資源が見せる幻想のなかでホオズキは提督を思わせる海色機関支給のオイルライターを拾った直後、「彼」に襲われる。性的倒錯者であったことが伺える提督は彼女の体をつうじて心の内にまで浸入し、本人亡き後も亡霊のように彼女の心を縛っていた。精神の檻に囚われ失調する寸前、ホオズキヒイロに助けられる。失踪した艦娘たちは調査のためにこの地に踏み入れたときにホオズキが受けたような「呪い」によって正常さを失い、悪性変異した微細資源に取り込まれてしまったのである。妖精による「迷い家」の仕組みを看破した彼女らは最後に微細資源の制御を正常化してこの地を去る。

・感想
 妹尾さんの小説はファーストショット(掴み)がとても良い。潜入捜査からヒイロ登場、復元管理地域に至るまでのシークエンスが格好いいですね。潜入捜査のシーンにもインパクトがある。ホオズキは違法風俗の摘発のためにオーナーと寝るのだが、この行為にはどこか人工物としての自分を突き放して見ている感覚があり、この常人との「ズレ」が後々効いてくる。
 「心造少女」のときと同じく、今回も艦娘の名が伏せられたまま進行する。ホオズキが退役の折りに艦娘としての名を返上しているという事情もあるが、艦娘の名と個人の名を分ける試みが物語に効果的に出ている。このエピソードでは艦娘固有の呪術に関するイメージと、ホオズキが艦娘であった時の心の傷(=個人の特異性)を分けることで艦娘/少女の複雑な二重性を表現している。

 ホオズキヒイロの艦娘名は龍驤とあきつ丸。ともに呪術的なモチーフがあるためにこの話に起用されていたことが最後に明かされる。
 思うに、ヒイロの口から語られる「迷い家」から物を持ち帰った人物は幸福になるという伝承は、過去の呪縛と向き合ったホオズキを勇気づける言葉になっている。他の艦娘は呪いに抗うことができずに死んでしまった。固有名のあるヒトとしてではなく、匿名のモノとして去らねばならなかった。虐殺の悲劇性は虐殺があったことではなく、殺されたのが誰でもよかったこと、すなわち固有名が匿名(数値)になってしまうことにある、と東浩紀が処女論文「ソルジェニーツィン試論ーー確率の手触り」で書いていたことを頭の片隅で思い浮かべる。
 彼女たちとホオズキの違いはやはり、ホオズキが退役後もずっと戦ってきた事実にあるのだろう。社会の澱みや、そして自分自身と。最終的にはヒイロに助けられた格好になってはいるが、この場所でヒイロと共にいることもホオズキのギフトであり、彼女が戦ってきたことで得られたものだ。挫折を受けてなお負けないこと、それがヒトとして生きることであり、死に場所を自分で選ぶという固有名のあるヒトの尊厳=幸福にも関わってくる。


・表題作「アカーシャの舷窓」

・文庫裏のあらすじを引用する。
「とある実験の為構築された公海上の人工島と通信が断絶した。実態調査に派遣されたのは《妖精機関》の曙と皐月。彼らの標的は深海棲艦にあらず、《悪性変異》した艦娘の成れの果てである。(中略)凄惨かつ幻想的なサイコポエティックSF短編集。ーーこれは妖精が記述する、取るに足らない断章だ。」

・感想

 凄惨かつ幻想的なサイコポエティックSF。凄惨ってワードが紹介に書かれているの、初めて見た。
 それはともかく、表題作の「アカーシャの舷窓」は本文68頁(33頁~101頁)の短編だが、構想としては長~中編くらいのボリュームになっている。「心造少女」の冒頭で登場した曙と皐月が主人公になので前日譚といってもいいのかもしれない。「心造」では早々に退場してしまった曙+皐月と夕張+由良の詳細が語られる。曙+皐月に負けず劣らず夕張+由良はアツい。是百合。
 サイコポエティックなだけあって(?)お話はハード。初っぱなから悪性変異してしまった艦娘と戦うことになり、その艦娘の有様もグロテスクだ。描写が、というよりモノとしての艦娘のハードウェアがハッキングされている様子がグロテスクに映る。
 そしてさらにハードなのは、モノ扱いされているのが「敵」だけでなく妖精機関所属の曙と皐月も同じ境遇にいることだ。かつて使い捨ての駒にされて両目を失った皐月、非適性艦娘として生を受けたがゆえに屈辱と罪を背負った曙。彼女たちは失意のなかで選ぶ余地なき選択をし、強化(エンハンス)されている。彼女たちには多くの艦娘を統べる軍事組織である海色機関には敵対心があり、今回の調査でも結果的に巨大組織である海色機関の鼻を明かすようにごく少数で事件を解決することになる。より正確に言うと海色機関への敵対心よりも自分が艦娘、しかも不完全な艦娘であるということへの理不尽さを強く抱いている。
 終盤、アカーシャと曙が対面する場面で、「深海棲艦との終わらない戦争を引き延ばす。それが海色機関が求める適性(あるべき姿)」だというアカーシャに対して、曙が「だったら、最初から全部決められた(プログラム)通りに動くように造れッ!」と啖呵を切る。だがアカーシャは反論するのでなく、それに同意する。なぜなら彼女たちも曙と同じように解体処分を診断された非適性艦娘の集合体(成れの果て)だったからだ。
 アカーシャの目的は妖精式解析機関を乗っ取り、人間を支配することだった。それは人間への復讐であり、勝手な理由で自分たちを死の淵に追いやった人類に対する怨嗟だ。人類の守護者たりうる基準から零落した非適性・不適格者の集まりであるはずの妖精機関の艦娘・曙は、アカーシャのルサンチマンに同調しなかった。なぜか。それはかつての自分の姿がそこにあったからだ。
 曙はかつて解体を逃れるために提督に隷属を誓わされ、屈辱的な折檻を受けていた。だがそれは提督が曙の身を守るためについた嘘だった。提督に不正隠蔽を選択させたのは曙自身の弱さだった。そのために心が磨耗した提督は自ら死を選んだ。自分が生き延びることだけを考えていた弱さが、誰よりも自分の身を考えてくれていたひとを殺した。曙はその後、解体される間際に選択を強いられる。解体されるか、改造されて生き延びるか。生き延びたいがために提督を殺してしまった曙にとって、安易に死ぬことを選ぶことはできない。どんな苛烈な道が待っていようと、生きることが彼女の責任だった。あるものを選んだ以上、責任を取らなければ自分が自分でなくなってしまう。
 アカーシャのルサンチマンは他人に責任のすべてを背負わせる。その態度は、同じようにして他人を害してしまった曙にとって決して相容れなものだ。解体された艦娘の無念は存在するだろう。だがその責任を他者に押しつけようとすれば、何かを選択しながら生きていく主体も同時にいなくなってしまう。結果的に、アカーシャの目論見は他ならぬ妖精機関の手によって阻止される。
 アカーシャと比べて曙や皐月の清々しい態度には自由を感じる。それは妖精機関の艦娘たちが巨視的な人類や深海棲艦の存在とは離れたところで、自分たちが生きるために生きているからだろう。そこには、過去に向き合う意思はあれど大義のような大文字の責任や意志の観念は希薄だ。彼女たちはつむじ風のような一個の現象(あるいは妖精)として、人類の守護や深海棲艦の殲滅という大目的からスピンアウトし、個として世界と向き合っている。それは絶えず傷つくことになるしんどいポジションだが、そのような「中動態」*1的な在り方が自由さを感じさせるのかもしれない。

 ところで、やはりこのエピソードは(どこかでも言われていたように)長編向けの物語だと思う。そのためダイジェスト感があることは否めない。用語説明などがやや多めに感じるのも全体の尺が圧縮されているためだろう。ただ、器からあふれんばかりの熱情が込められた歪さこそを本作の美点としたい。


・「ブルースフィア・サブマリンショウ」
・簡単なあらすじ
 深海棲艦が現れて以来、長い間途絶していた大型旅客船の運行が行われた。旅客船内の娯楽演目「ブルースフィア・サブマリンショウ」を担当する潜水艦イムヤは恋人である船員の男性と体を重ねるうちに自らの退役(あがり)を意識するようになる。そんな折、妖精機関の響がイムヤの部屋を訪れる。彼女はある音源を探しており、イムヤは恋人がその音源を所持していることを告げた。

・感想
 これはフィニクスフヴォーストのスピンオフとして書かれているので見落としているところがあるかもしれないのだけど、それ以上に直情型の朝霜くんとクールビューティ響の凸凹百合が強烈で頭がやられてしまった。
 ところどころで出てくるイムヤの「胎が疼く」という表現もえっちだった。朝霜響の濡れ場が見たい。ラストで響がイムヤに好意を向けられてバリタチ女っぽくなっているのがとてもよくて、嗚呼、響はこういう運命の元に生まれてきた実質ネコの外見バリタチ女なんだろうなと思いつつ色々考えてしまう。
 退役=あがりの概念は橋本しのぶさんの艦これ二次創作「虚ろの海」シリーズくらいでしか知らないのだけど、そこそこ使われてるのかな。そうでもない気がするけど、直感的にわかりやすくて良い。
 本編は、短編らしくこの世界の広がりを感じられて良いと思った。海の安全をアピールするパフォーマンスとして旅客船を運営したり、艦娘が競技に従事する設定などは、妖精技術と並行して資本主義経済が回っていると自然に発生するものだと思う。また競技者として艦娘の地位が向上すると人権らしきものが立ち現れてくるのがおもしろい。その反面でアングラなサブマリンショウが行われていた過去があったことを匂わされたり、実際にイムヤが売られようとしているところを見ると混沌とした近未来の縮図を見ているようで情報量が多くてよい。
 キャラクターが自由に行動しているので好きなエピソードでした。響くんつよい。それにしても朝霜と響には並々ならぬ著者の愛情を感じます。


まとめ
 「心造少女」に引き続き上手いなあ、と思いながら読んでいたらサクッと読めてしまった。そして感想はだいぶ長くなってしまった。今作は前作FBを読んでから再読するとまた印象が変わると思うので、また帰ってきたい。

*1:中動態とは古代語に存在する言語態で、能動態と対立する態のこと。能動態は「主体の内から始まる行為が主体の外で完結する」行為である一方、中動態は「主体の内から始まる行為が主体の内で完結する」行為を指す。能動と受動では「する/される」でしか行為を記述できないが、國分功一郎『中動態の世界』のなかでは、それではカツアゲを説明できないと述べられている。カツアゲは加害者に脅された被害者が金を差し出す行為だが、外から見ると被害者が自分の意志で金を差し出しているように見えてしまう。これを中動態的に「主体の内から始まる行為が主体の内で完結する」状態すなわち「外からの影響を受けて主体の内側が変化する」モデルで考えると、カツアゲされたことで被害者は自らの意志と関係なく金を差し出す状態に変化してしまった、ということができる。「する/される」ではなく「ある」。現象が主体のなかに展開しているイメージ。ここでは特定の目的のために生まれたはずの艦娘が自身の望む・望まざる変化によって別の目的を見つけ生成変化していくプロセスと中動態を重ねている

禁じられた力を持つ艦娘たちの戦い──妹尾ありか「心造少女(1)」感想。

妹尾ありか「心造少女(1)」(サークルありや刊)読み終わりました。
すげーーーー面白かった。

戦闘もカッコいいし、展開も上手い。
これは「艦これ」を知らなくても読むべきです。というか、妹尾ありかという優れた書き手を知るべき。この人は小説が上手い!!!やったぜ!!!
あと天津風があの衣装を纏っている理由づけがされているのがとてもよく、恥ずかしがっている様子にとてつもないフェチを感じた。少女の描き方全般に艶があって良い……。

そもそも「心造少女」というのは、響を主人公とした前作「フィニクスフヴォースト」シリーズと同一世界観を有した、妹尾ありかさんの艦これ二次創作の新シリーズ一作目(全三作)です。boothで電子書籍版が買えるようですね。

心造少女 - ありや - BOOTH(同人誌通販・ダウンロード)
https://ariya.booth.pm/items/421369

一覧に移動すると前作も買えます。

文庫裏の紹介文も載せておきましょう。

<──四十一・八九度の鼓動。平均体温のプラス五度。これが私を造る心の温度。

ブランデンブルグ発日本行きの旅客機が「我ら、深海棲艦に会敵せり」と残し、上空一万メートルで行方を眩ませた。一方、大規模風力発電農場に住む少女・カレンは、ある日、風力タワーの中で自分とよく似た少女に出会う。転がりだす運命。軍事作戦に適性を持たないと見做された「非適性艦娘」たち。彼らは科学へ身を捧げ、獲得した新たな「力」とともに第二のキャリアを歩む。

禁じられた力を持つ艦娘たちの戦いを描くテクノスリラーSF、第一章>


以下はネタバレ有りの、ちょっと冷静な感想になります。


僕は前作は未読なのだけど、生体兵器としての艦娘が生きる世界が見事に表現されていた。驚いた。それは描き方にも表れていて、冒頭、飛行機上の場面から主人公であるカレンの物語に移るまでに、この物語に必要な描写が丁寧に積み重ねられていることからもよくわかる。

この世界について、人類の脅威について、脅威がどのように現れるのか、そして脅威に対してどう戦っているのか。そして主人公の少女が登場すると、彼女がどう見られ、それに対してどう感じているか、また日常生活をどう過ごしているのか。

表紙から見て取れるように、これは天津風の物語なのだけど、終盤になるまで天津風は「艦娘・天津風」としての自覚を持っていない。物語のある場面まで主人公は「少女・カレン」として生き、行動している。ちなみに読者たる僕は「艦これ」をあまりプレイしていない(少し触れた程度)ので、天津風が何型の何番艦なのかすらもよく知らない。でもカレンという少女の物語を読む上では「艦これ」の事前情報を持っていない読者でも充分楽しく読むことができる。むしろ開陳される情報がどれも新鮮なので事前情報がないほど楽しめるかもしれない。

もちろん二次創作なのでキャラクターの描写は原典の印象に委ねて省略されることもある。ただ、この作品が優れているのは原典のキャラクターを「この世界」というフィルターにかけることで再解釈していることだ。それは終盤に出てくる二重人格の艦娘に顕著で、彼女のようにひとつの船体にふたつの人格が同居する艦娘が存在するのは「艦これの二次創作」としては偏りがあるのかもしれない。しかしSFとして考えるならとても正しい、と強く肯定したい。

謎めいた妖精技術を基幹とする高度に発達した近未来世界や、生体兵器として陸上でも活動する強大な艦娘の存在、そして艦娘の陰画のように振る舞う深海棲艦の恐ろしさを考えると、可憐な少女イメージを持った原典の艦娘のままよりも、彼女たちの在り方のほうがマッチする。序盤、カレンが男性に欲望の視線に晒されていることにも注意されたい。この場面にはこの社会の欲望が端的に表れている。後半、行方不明の艦娘が生じる理由についてヒトの欲望が引き合いに出されるけど、これも人類社会に艦娘を外挿した結果であると考えればとてもSF的だ。

SFに関連づけていうなら、この作品は生体兵器としての艦娘を特殊な能力をもつ能力者(エンハンサー)として扱っていることから冲方丁の「マルドゥック」シリーズや「シュピーゲル」シリーズに重ねられるだろう。とりわけ前者の「マルドゥック・ヴェロシティ」などは数多くの能力者が異形相手にドンパチを繰り広げる大胆かつ凄惨な物語だが、こと能力と戦闘の描き方については「心造少女」と共振するものを多く感じる。

また、カレンが初めて艦娘としての力に目覚めて深海棲艦と交戦し、暴走のあまり力に溺れてしまうシーンは「マルドゥック・スクランブル」の主人公・バロットの暴走(能力の濫用)のシーンのイメージと重なる。しかしここで僕は、ことさら本作と先行作との類似を指摘したいのではない。本作の設定や場面は先行作を単純になぞったようには描かれていない。本作は主題を描く上で避けられないものを物語の要請に応じて描いている。少なくともそう感じさせる圧がある。「マルドゥック・スクランブル」において冲方丁がそうであったように、「心造少女」の著者からは、この物語を描く以上は避けることのできない障害を躊躇なく主人公の目の前に置き、彼女自身の手で克服させようという強い意思を感じるのだ。

本作の最後に、カレン=天津風はひとつの選択を強いられる。育ての親ともいうべきユキが苦境に立たされている状況を救うために彼女の行動が必要だった。自らの身を捧げるか、それとも他者と戦う道か。前者は稀少な能力をもつカレンが生きながら被験体となること。後者はカレンと同じように行方不明となった艦娘を調査・追跡・回収・解体すること。それは同時に「自分と同じだったかもしれない娘たちとの、終わりなき戦い」だとも言われる。

"由良は厳しい表情を浮かべる。「それはつまり、チームに加わった場合、あなたは戦うことを余儀なくされるということ。それも[死ぬまで/原文傍点]。自分と同じ、あるいは、自分と同じだったかもしれない娘たちとの、終わりなき戦い。それはあなたが居たウィンドファームでの、安全や平穏の生活とは程遠い。『水族館』の水槽の中で、あなたさえ痛みに耐えればいいだけの生活とも違う。あなたは[生きるために誰かを害する/原文傍点]ことを、受け入れなくてはならない」" (「心造少女(1)」173頁)

かくして怯えがちで心優しい少女として(ときには搾取の対象とさえ)描かれてきたカレンは、後者──生体兵器として他者と闘いながら生きる道を選ぶことになる。引用文の前段にあるように、彼女には「有用性を示す必要がある」。有用性。今は他人から与えられた形式的な目的に過ぎないが、いずれは自らの意思によって改めて別の形で示す必要があるものだと予感させるフレーズ。

強力な生体兵器としての艦娘。
ずば抜けて魅力的な外見をもっている艦娘。
まるでヒトとは違う彼女たちにも人並みの自我があり、生きたいと願う心がある。
ヒトであり、ヒトでないものが、ヒトの世界で生きる意味とは何なのか。このような問いを内包した視点をカレンという少女は担っているように思う。彼女は「自分と同じだったかもしれない娘」と戦わなければならない。それは同時にカレン自身がヒトであることの意味、その輪郭を探る旅になるはずだ。
この物語の行く先に注目していきたい。

願わくば、報われざること一つとしてなからんことを。

映画「この世界の片隅に」感想。(ネタバレあり)

片渕須直監督・こうの史代原作の映画「この世界の片隅に」を観た。どうしようもなく泣いてしまった。観た後にひと肌が恋しくなる映画だ。あるいは観ている最中にも。愛する人が傷ついていく姿はどうしようもなく苦しくてつらい。こんなに苦しみにまみれている世界だから、せめて愛し/愛される相手を主体的に選ぼうとするのかもしれない。何かや誰かに選ばれ、運ばれ、ときに自分でも選ぶ番がやってくる……。

原作はまだ読んでいませんが、これから必ず読みます。売り切れていたパンフレットも欲しい……。

はじめに、片淵監督を筆頭に映画制作に尽力くださった関係者の方には感謝が尽きません。さまざまな困難があったにもかかわらずのんさんを主演に据えてくださったことにも感謝しています。いまやのんさんの声なしにすずさんは想像できません。素晴らしい映画でした。まだ観ていない人は観に行こう。ほんと。

さて、じつはこの映画のクラウドファンディング開始時に僕も(原作も未読であったにもかかわらず)小額ながら参加させていただきました。なにか直感が働いたのかもしれない。しかし実際に映画を観て、さらにこの文章を書いている今も動揺が収まらなくて何を書いたらいいのかわからない。むしろ何を感じているのかはっきりさせるためにおそるおそる書いてみようと思う。

以下ネタバレ。

戦争のこと

「太平洋戦争」というとき、ひとはどのようなイメージを思い起こすのだろう。史実、過去、戦争を描いた小説や漫画、映画、アニメとともに、あるいは戦争体験を語る言葉……。太平洋戦争のイメージは私たちの時代に多く伝わっていて、戦後70年を超えた今でもぼんやりと「過去の悲惨な記憶」として受け継がれている。

私的な記憶について少し書く。僕はおそらく戦争経験を持った親族のいるほぼ最後の世代になるだろう。母方の祖父は末期に従軍していたものの、戦場に出る前に東南アジア周辺の海上で飢えかけたところで終戦を迎えて帰ってきたらしい。戦時中のことで祖父から聴いたことはあまりない。彼は悲惨な記憶をあえて親族に伝えようとは思わなかったのかもしれない。戦時中の「おかしな」日常を茶化すように「万歳三唱」をしたり、冗談を飛ばすことはあっても他のことをあまり聴いた記憶はなかった。戦争が終わって祖母と結婚すると親族から借りた金で土地を買って自営業を始め、祖母と母たちを育てた。身体が頑健だった祖父は80近くになるまで外仕事に精を出していた。 彼は戦後に自分の人生を選んだのだ。

太平洋戦争の時代に生を受けたことは祖父には選びようがない。自分には選びようのない大きな時代のうねりに巻き込まれ、故郷から遠く離れた嘘みたいな場所で死にかけて戻ることになって、たぶん日本に戻ってから彼も何か大切なものを失ったのだとは思う。亡くなってしまったいまでは知ることができないけれど、とにかくそこから新しい人生を選んだことだけは子孫である僕は知っている。

「すず」の世界について

前置きが長くなった。そろそろ映画の話に戻ろう。この物語には「すず」という女性が大きな時代のうねりに巻き込まれ、身の回りが困窮していくなかでも何とか生活していく姿が描き込まれている。時代がどうなっていくのか「すず」の近くで寄り添っている観客の視点からは伺い知ることはできない。ただ彼女が生きている時代が何年何月のどこであるかは示される。観客と「すず」の大きな違いは、僕たちが戦争という「日常」がどのようにして終わるのか理解している一方でスクリーンの向こう側にいる彼女たちには全く分からないということだ。そうはいっても観客は「すず」たちがこれからどうなるのかわからない。大きな結末だけはわかっているのに登場人物がどうなってしまうのか分からないサスペンスフルな状態で物語は進んでいく。

僕は原作を読まないまま映画を観ていたので、実際に彼女たちがどうなるのか知らずに命運を見守ることになった。どんな人生にも誕生があって、幼児期の記憶があって、それから大人になっていく。すずさんにとって大人になることは嫁に行くことだった。ほとんど相手のことを知らずに嫁いでいって、その家に入っても現実感のないすずさんの姿に僕は不安になった。すずさんを知る彼女の家族と同じように不安になったに違いない。それからいろいろなことがあって夫の周作さんや嫁ぎ先の家族のことも深く知るようになり、義理のお姉さんや姪っ子とも仲良くなっていく。……と同時に戦争は激化していって彼女の住む家も空襲に巻き込まれていく。配給も少なくなり食糧が不足していくなかでもすずさんはやりくりをして家族の食事を作っていく。すずさんはぼんやりしているけど働きものだ。でも、好きな家族のために家族のひとりひとりが一生懸命になるのはいつの時代でも同じかもしれない。

すずさんの人生には絵と空想が一緒に踊っている。自分の感情が動かされたときにすずさんは絵を描く。すずさんが絵を描くことについて周りも好ましく思っていることが見ていて伝わってくる。それはとても彼女らしい行為だからだと思う。ぼんやりしていていつも現実から一歩遅れて生きているように見えて、周りが足早に過ぎ去っていくような風景にも目を留めてじっくりと観察している、すずさんはそんな女性だった。すずさんの描く絵は彼女にとっての現実であり、彼女にしか感じ尽くせない視点から描かれている。この世界にはひとりにひとつぶん場所が与えられていて、すずさんは精一杯踏みとどまりながら、そこから見える景色を誰かに伝えようとしていつも鉛筆を握っていたような気がする。物語のなかでも絵をきっかけに他人と繋がっていくことは多い。この世界から半歩遊離しているすずさんにとって現実と接続するために「絵」という媒体があったのだと思う。

すずさんが現実と接続するための「絵」という媒体を失ったあとも「この世界」は続いていく。切断の痕跡がすずさんの身体に刻まれたことを観客は見せつけられ、それ以上に巨大な喪失の経験がすずさんの精神を蝕んでいることを痛感させられる。何かを失ってもこの世界は続いていく。誰かの大事な記憶を追体験するには一部を聞きかじっただけでは不十分なのだろう。大切なものの重みも、喪失の耐え難さも、それだけではなかった日々の生活の欠けがえのなさも、すべての「意味」は人生という全体性のなかで位置づけられてこそ立ち現れてくる。

初めのほうで観客は「「すず」の近くで寄り添っている」と書いた。たしかに前半部ではそうなのだけれど終盤の展開に差し掛かるとその印象を変えずにはいられない。僕たち観客がすずを「見る」ことの意味は両義的だ。一方で観客は彼女に寄り添っているように見えるけれど他方ではスクリーンに阻まれて彼女に対して何もできない無力さを露呈してしまう。ただ起きたことを観る。このことにどんな意味があるのか。それはこの映画が徹底的に虚構として(絵として)描かれていることと深く関係しているように思えてならない。*1

酷薄な世界と対峙しながら生きる

非日常のなかでも人間が生活を営んでいた事実は忘れがちになる。とはいっても手がかりがなければ想像することもできない。この映画は、どんな時代にあっても人間を取り巻く世界は根本的には変わらないことをまざまざと見せつけてくる。当たり前の喜び、不安、哀しさ、貧しさ、ひもじさがそこにある。そして世界の酷薄さは今よりもむき出しになっている。この世界の延長で僕の祖父も同じように生きていたのだろう。冒頭で記したように、僕は祖父の生を断片的にしか知らない。というより自分のものでさえ人生の全体を知ることは不可能だ。過去の記憶はすぐに忘れられていく。どんなに衝撃的な記憶さえも忘却や改変からは逃れられない。僕たちはつねに不完全な現実を生きることを運命づけられている。不完全な現実から仮の全体性を想像することで複雑な世界を何とか生きているのだ。

この映画を観るとき僕にはすずさんとともに生きながら「あの世界」の経験を作り出していく感覚があった。もっといえばすずさんの作り出した視点を借りることで同時代を生きているように感じていた。すずさんが認識している世界像がスクリーンに投影され、僕たち観客にも共有されていたといってもよい。それはすずさんが絵を描くことによって共有していた風景を、観客はすずさんが絵を描けなくなったあとも見続けていることに他ならない。この「すずさんの視線」が失われていないことで観客はすずさんがそれでもまだ世界との接続を断っていないことを知るのだ。その接続、希望は本人が望む/望まぬにかかわらず得た人間関係のなかにあった。かけがえのないものはそれと分からずに自分の手のなかにあって知らずのうちに自分を助けてくれているのかもしれない。

最後に

人間は不完全な現実を生きているとさきに書いた。複雑な世界に対して有限な情報しか処理できないために不完全に歪められた現実しか生きられないからだ。そのような意味で、つねに僕たちは虚構に生きているのかもしれない。この映画で描かれるすずさんの世界と同じように記憶や認識が伸び縮みする不安定な状態に置かれ、断片的にしか情報を受け取れない存在として、人間はこの世界にいる。根源的に主体は世界のほうでちっぽけな人間は客体の側(=片隅)にとどまるしかない。それでもなお身の回りの生活を続けたり、関係を育んだり、想像の世界をつくることで酷薄な世界に対峙しながら「淡く」「弱い」人間的な世界で生きていく。今まで生きてきた事実を抱きしめながら、これからも生き抜いていくのだ。僕たちも、すずさんと同じように。

*1:この点について記事のなかであまり深く触れるつもりはないが軽く書き出してみようと思う。(以下は東浩紀氏の「この世界の片隅に」と「君の名は。」を風景の点から論じた2016/11/20のツイートから強く影響を受けている。)「この世界の片隅に」が描くのはリアルな風景ではない。戦争という題材に迫真性(リアリティ)を与えたいのなら写実的な風景を使ったほうが上手くいくだろう。しかしこのアニメ映画はむしろ徹底的に虚構として描かれている。もちろんすずを取り巻く世界は現実を忠実に再現し緻密に描き込まれているが、キャラクターと風景はともに淡いタッチに溶け込んでいて、どちらも同じような絵としての質感をもっている。絵と現実が混じり合った世界の虚構性が序盤から繰り返し強調されているように(周作との出会いのエピソードなど)、すずは現実と自分の生をうまく溶けこませることができず、現実から解離した視点から世界を虚構的に見ている。それが表現のレベルでも表れている。このように全体を虚構として描いていくからこそ「この世界の片隅に」の「世界」はすずの視線と分離不可能な迫真性を獲得している。そうした虚構的なすずの世界を眺めることで、同時に私たち観客も世界を虚構的にしか認識できていないことを知るのだろう。

TVA血界戦線初回メモ:レオナルド・ウォッチは目を逸らさない

ハロー、どうもここは内藤泰弘原作TVA『血界戦線』にハマって原作を読破した後に第5話まで放映されたTVA版を延々とループしている世界線です。

今日は血界戦線の一話と五話を見返していたんですけれども、初回は主人公レオナルド・ウォッチの強さがぎゅっと詰まっていていいですね。レオが回想した「あの日」は「奇跡の連続だった」とモノローグで語られているけれど、じつは彼自身が数々の試練を乗り越え「希望」に近づく決定的な第一歩を踏み出した日なんですよね。それは単なる棚ぼた的な奇跡などではない、ということ。レオが勇気を出し「正しい選択」に踏みださなければその先の道は永遠に閉ざされていたはずです。

レオナルド・ウォッチは目を逸らさない
彼の強さがどのようなところに備わっているかというと、まずギフト(神々の義眼)や悲劇的な体験(あの日の後悔)を与えられても安易な悲劇物語とナルシシズムに還元しない自制心をもっていること。半神に襲われたときにレオが義眼をもっていなくともクラウスは彼を助けたでしょうが、その後にやってきた動機の告白によって精神性を認められなければライブラへの入社はありえなかったでしょう。仮に「能力のために妹を売った外道」だったとしたら……?と、考えるとザップに切り捨てられてジエンドです。

また彼が感性と理性の調和している人格の持ち主でなければ、堕落王の思惑を超えてダニを殺し/音速ザルを助けるという「正しい選択(=ライブラ的な倫理判断)」を下すことができなかったことでしょう。他者を思いやる感性がなければサルを殺してジエンド。そして神々の義眼を正確なタイミングで行使できる理性がなくてもジエンド。

こうしてみると彼の「選択」の一つ一つは一歩間違えればジ・エンド真っ逆さまな試練の連続だったと言えます。HLは条理の外にある都市で、ルールなきゆえに直接的に実存が問われてしまうので選択の失敗がすぐさま落命に繋がります。試練を見事に乗り越えたことが、秘密結社ライブラの一員として生き/HL(ヘルサレムズ・ロット)を生きる適格者であることの証明になっており、そして原作10巻初出のトータスナイト(viaミシェーラ)という称号の意味にも繋がっています。

だから彼の生は「奇跡」に運ばれたものでもあるし、同時に彼自身が現実を直視して選んだ運命なのですね。レオナルドの強さについてはアニメオリジナルのホワイト/絶望王のエピソードを通じて改めてスポットが当てられるのではないでしょうか。(10巻のオルタナティヴとして)

不条理の世界で生きるっていうこと。
HLは条理の外に置かれた(ルールのない)世界なので選択を誤った人間から簡単に命を落とします。レオの例でもわかるようにHLでは剥き出しの実存がつねに世界から試されているような不条理のエートスが渦巻いている。

この前提を念頭に13王の「堕落」や「偏執」「絶望」などの原初的な感情の名を冠した「より純粋な」存在があの世界ではいちばん力を持つのだ、と考えると説得力を感じます。ブラッドブリードなんて小さな神(純粋なもの/絶対者の端くれ/マレビト)でしょう。ライブラは無秩序状態で力を持て余している彼らのような存在を封じるためのルール(=倫理)の一線を護っているんですね。ライブラの面々が技名を叫んでから殴るのも真名を呼ぶことで「より純粋な」能力を引き出すための儀礼行為だと考えると整合性が取れたりします。力を得るためにかたや名を暴き、かたや名を隠す。

守護者も人の身である以上はルールの創造主にはなれない。とはいえ条理の底が抜けた都市において人間として尊重すべき倫理の一線を護ることはできる。クラウスの説く「希望」はこの延長にあり、彼の高潔な精神はその思想を体現しています。常識が効かない世界では個人の行動が「世界の均衡」に直結する場面がある。その瞬間に均衡を護ることができるのは、もはや何が正義なのか見極められない混沌のなかで、たった今下そうとしている決断を自分の正義だと信じて選択できる勇気をもつものだけです。レオがライブラに入ることを許された理由は「世界の均衡を護る」という組織のミッションを遂行するに足る能力と精神性を認められたから、というのは既に述べたとおりです。ひとつ付け加えるのなら、ここ一番で見せる肝っ玉が見かけによらず太いということでしょうか。彼の入社条件を検討してみるとこのように力強く責任を引き受ける「勇気」をもった人間の集合がライブラという組織である、と言うこともできますね。この主体の特徴はもしかしたら前作トライガンから続く内藤漫画スピリットなのかもしれません。