映画「この世界の片隅に」感想。(ネタバレあり)

片渕須直監督・こうの史代原作の映画「この世界の片隅に」を観た。どうしようもなく泣いてしまった。観た後にひと肌が恋しくなる映画だ。あるいは観ている最中にも。愛する人が傷ついていく姿はどうしようもなく苦しくてつらい。こんなに苦しみにまみれている世界だから、せめて愛し/愛される相手を主体的に選ぼうとするのかもしれない。何かや誰かに選ばれ、運ばれ、ときに自分でも選ぶ番がやってくる……。

原作はまだ読んでいませんが、これから必ず読みます。売り切れていたパンフレットも欲しい……。

はじめに、片淵監督を筆頭に映画制作に尽力くださった関係者の方には感謝が尽きません。さまざまな困難があったにもかかわらずのんさんを主演に据えてくださったことにも感謝しています。いまやのんさんの声なしにすずさんは想像できません。素晴らしい映画でした。まだ観ていない人は観に行こう。ほんと。

さて、じつはこの映画のクラウドファンディング開始時に僕も(原作も未読であったにもかかわらず)小額ながら参加させていただきました。なにか直感が働いたのかもしれない。しかし実際に映画を観て、さらにこの文章を書いている今も動揺が収まらなくて何を書いたらいいのかわからない。むしろ何を感じているのかはっきりさせるためにおそるおそる書いてみようと思う。

以下ネタバレ。

戦争のこと

「太平洋戦争」というとき、ひとはどのようなイメージを思い起こすのだろう。史実、過去、戦争を描いた小説や漫画、映画、アニメとともに、あるいは戦争体験を語る言葉……。太平洋戦争のイメージは私たちの時代に多く伝わっていて、戦後70年を超えた今でもぼんやりと「過去の悲惨な記憶」として受け継がれている。

私的な記憶について少し書く。僕はおそらく戦争経験を持った親族のいるほぼ最後の世代になるだろう。母方の祖父は末期に従軍していたものの、戦場に出る前に東南アジア周辺の海上で飢えかけたところで終戦を迎えて帰ってきたらしい。戦時中のことで祖父から聴いたことはあまりない。彼は悲惨な記憶をあえて親族に伝えようとは思わなかったのかもしれない。戦時中の「おかしな」日常を茶化すように「万歳三唱」をしたり、冗談を飛ばすことはあっても他のことをあまり聴いた記憶はなかった。戦争が終わって祖母と結婚すると親族から借りた金で土地を買って自営業を始め、祖母と母たちを育てた。身体が頑健だった祖父は80近くになるまで外仕事に精を出していた。 彼は戦後に自分の人生を選んだのだ。

太平洋戦争の時代に生を受けたことは祖父には選びようがない。自分には選びようのない大きな時代のうねりに巻き込まれ、故郷から遠く離れた嘘みたいな場所で死にかけて戻ることになって、たぶん日本に戻ってから彼も何か大切なものを失ったのだとは思う。亡くなってしまったいまでは知ることができないけれど、とにかくそこから新しい人生を選んだことだけは子孫である僕は知っている。

「すず」の世界について

前置きが長くなった。そろそろ映画の話に戻ろう。この物語には「すず」という女性が大きな時代のうねりに巻き込まれ、身の回りが困窮していくなかでも何とか生活していく姿が描き込まれている。時代がどうなっていくのか「すず」の近くで寄り添っている観客の視点からは伺い知ることはできない。ただ彼女が生きている時代が何年何月のどこであるかは示される。観客と「すず」の大きな違いは、僕たちが戦争という「日常」がどのようにして終わるのか理解している一方でスクリーンの向こう側にいる彼女たちには全く分からないということだ。そうはいっても観客は「すず」たちがこれからどうなるのかわからない。大きな結末だけはわかっているのに登場人物がどうなってしまうのか分からないサスペンスフルな状態で物語は進んでいく。

僕は原作を読まないまま映画を観ていたので、実際に彼女たちがどうなるのか知らずに命運を見守ることになった。どんな人生にも誕生があって、幼児期の記憶があって、それから大人になっていく。すずさんにとって大人になることは嫁に行くことだった。ほとんど相手のことを知らずに嫁いでいって、その家に入っても現実感のないすずさんの姿に僕は不安になった。すずさんを知る彼女の家族と同じように不安になったに違いない。それからいろいろなことがあって夫の周作さんや嫁ぎ先の家族のことも深く知るようになり、義理のお姉さんや姪っ子とも仲良くなっていく。……と同時に戦争は激化していって彼女の住む家も空襲に巻き込まれていく。配給も少なくなり食糧が不足していくなかでもすずさんはやりくりをして家族の食事を作っていく。すずさんはぼんやりしているけど働きものだ。でも、好きな家族のために家族のひとりひとりが一生懸命になるのはいつの時代でも同じかもしれない。

すずさんの人生には絵と空想が一緒に踊っている。自分の感情が動かされたときにすずさんは絵を描く。すずさんが絵を描くことについて周りも好ましく思っていることが見ていて伝わってくる。それはとても彼女らしい行為だからだと思う。ぼんやりしていていつも現実から一歩遅れて生きているように見えて、周りが足早に過ぎ去っていくような風景にも目を留めてじっくりと観察している、すずさんはそんな女性だった。すずさんの描く絵は彼女にとっての現実であり、彼女にしか感じ尽くせない視点から描かれている。この世界にはひとりにひとつぶん場所が与えられていて、すずさんは精一杯踏みとどまりながら、そこから見える景色を誰かに伝えようとしていつも鉛筆を握っていたような気がする。物語のなかでも絵をきっかけに他人と繋がっていくことは多い。この世界から半歩遊離しているすずさんにとって現実と接続するために「絵」という媒体があったのだと思う。

すずさんが現実と接続するための「絵」という媒体を失ったあとも「この世界」は続いていく。切断の痕跡がすずさんの身体に刻まれたことを観客は見せつけられ、それ以上に巨大な喪失の経験がすずさんの精神を蝕んでいることを痛感させられる。何かを失ってもこの世界は続いていく。誰かの大事な記憶を追体験するには一部を聞きかじっただけでは不十分なのだろう。大切なものの重みも、喪失の耐え難さも、それだけではなかった日々の生活の欠けがえのなさも、すべての「意味」は人生という全体性のなかで位置づけられてこそ立ち現れてくる。

初めのほうで観客は「「すず」の近くで寄り添っている」と書いた。たしかに前半部ではそうなのだけれど終盤の展開に差し掛かるとその印象を変えずにはいられない。僕たち観客がすずを「見る」ことの意味は両義的だ。一方で観客は彼女に寄り添っているように見えるけれど他方ではスクリーンに阻まれて彼女に対して何もできない無力さを露呈してしまう。ただ起きたことを観る。このことにどんな意味があるのか。それはこの映画が徹底的に虚構として(絵として)描かれていることと深く関係しているように思えてならない。*1

酷薄な世界と対峙しながら生きる

非日常のなかでも人間が生活を営んでいた事実は忘れがちになる。とはいっても手がかりがなければ想像することもできない。この映画は、どんな時代にあっても人間を取り巻く世界は根本的には変わらないことをまざまざと見せつけてくる。当たり前の喜び、不安、哀しさ、貧しさ、ひもじさがそこにある。そして世界の酷薄さは今よりもむき出しになっている。この世界の延長で僕の祖父も同じように生きていたのだろう。冒頭で記したように、僕は祖父の生を断片的にしか知らない。というより自分のものでさえ人生の全体を知ることは不可能だ。過去の記憶はすぐに忘れられていく。どんなに衝撃的な記憶さえも忘却や改変からは逃れられない。僕たちはつねに不完全な現実を生きることを運命づけられている。不完全な現実から仮の全体性を想像することで複雑な世界を何とか生きているのだ。

この映画を観るとき僕にはすずさんとともに生きながら「あの世界」の経験を作り出していく感覚があった。もっといえばすずさんの作り出した視点を借りることで同時代を生きているように感じていた。すずさんが認識している世界像がスクリーンに投影され、僕たち観客にも共有されていたといってもよい。それはすずさんが絵を描くことによって共有していた風景を、観客はすずさんが絵を描けなくなったあとも見続けていることに他ならない。この「すずさんの視線」が失われていないことで観客はすずさんがそれでもまだ世界との接続を断っていないことを知るのだ。その接続、希望は本人が望む/望まぬにかかわらず得た人間関係のなかにあった。かけがえのないものはそれと分からずに自分の手のなかにあって知らずのうちに自分を助けてくれているのかもしれない。

最後に

人間は不完全な現実を生きているとさきに書いた。複雑な世界に対して有限な情報しか処理できないために不完全に歪められた現実しか生きられないからだ。そのような意味で、つねに僕たちは虚構に生きているのかもしれない。この映画で描かれるすずさんの世界と同じように記憶や認識が伸び縮みする不安定な状態に置かれ、断片的にしか情報を受け取れない存在として、人間はこの世界にいる。根源的に主体は世界のほうでちっぽけな人間は客体の側(=片隅)にとどまるしかない。それでもなお身の回りの生活を続けたり、関係を育んだり、想像の世界をつくることで酷薄な世界に対峙しながら「淡く」「弱い」人間的な世界で生きていく。今まで生きてきた事実を抱きしめながら、これからも生き抜いていくのだ。僕たちも、すずさんと同じように。

*1:この点について記事のなかであまり深く触れるつもりはないが軽く書き出してみようと思う。(以下は東浩紀氏の「この世界の片隅に」と「君の名は。」を風景の点から論じた2016/11/20のツイートから強く影響を受けている。)「この世界の片隅に」が描くのはリアルな風景ではない。戦争という題材に迫真性(リアリティ)を与えたいのなら写実的な風景を使ったほうが上手くいくだろう。しかしこのアニメ映画はむしろ徹底的に虚構として描かれている。もちろんすずを取り巻く世界は現実を忠実に再現し緻密に描き込まれているが、キャラクターと風景はともに淡いタッチに溶け込んでいて、どちらも同じような絵としての質感をもっている。絵と現実が混じり合った世界の虚構性が序盤から繰り返し強調されているように(周作との出会いのエピソードなど)、すずは現実と自分の生をうまく溶けこませることができず、現実から解離した視点から世界を虚構的に見ている。それが表現のレベルでも表れている。このように全体を虚構として描いていくからこそ「この世界の片隅に」の「世界」はすずの視線と分離不可能な迫真性を獲得している。そうした虚構的なすずの世界を眺めることで、同時に私たち観客も世界を虚構的にしか認識できていないことを知るのだろう。

TVA血界戦線初回メモ:レオナルド・ウォッチは目を逸らさない

ハロー、どうもここは内藤泰弘原作TVA『血界戦線』にハマって原作を読破した後に第5話まで放映されたTVA版を延々とループしている世界線です。

今日は血界戦線の一話と五話を見返していたんですけれども、初回は主人公レオナルド・ウォッチの強さがぎゅっと詰まっていていいですね。レオが回想した「あの日」は「奇跡の連続だった」とモノローグで語られているけれど、じつは彼自身が数々の試練を乗り越え「希望」に近づく決定的な第一歩を踏み出した日なんですよね。それは単なる棚ぼた的な奇跡などではない、ということ。レオが勇気を出し「正しい選択」に踏みださなければその先の道は永遠に閉ざされていたはずです。

レオナルド・ウォッチは目を逸らさない
彼の強さがどのようなところに備わっているかというと、まずギフト(神々の義眼)や悲劇的な体験(あの日の後悔)を与えられても安易な悲劇物語とナルシシズムに還元しない自制心をもっていること。半神に襲われたときにレオが義眼をもっていなくともクラウスは彼を助けたでしょうが、その後にやってきた動機の告白によって精神性を認められなければライブラへの入社はありえなかったでしょう。仮に「能力のために妹を売った外道」だったとしたら……?と、考えるとザップに切り捨てられてジエンドです。

また彼が感性と理性の調和している人格の持ち主でなければ、堕落王の思惑を超えてダニを殺し/音速ザルを助けるという「正しい選択(=ライブラ的な倫理判断)」を下すことができなかったことでしょう。他者を思いやる感性がなければサルを殺してジエンド。そして神々の義眼を正確なタイミングで行使できる理性がなくてもジエンド。

こうしてみると彼の「選択」の一つ一つは一歩間違えればジ・エンド真っ逆さまな試練の連続だったと言えます。HLは条理の外にある都市で、ルールなきゆえに直接的に実存が問われてしまうので選択の失敗がすぐさま落命に繋がります。試練を見事に乗り越えたことが、秘密結社ライブラの一員として生き/HL(ヘルサレムズ・ロット)を生きる適格者であることの証明になっており、そして原作10巻初出のトータスナイト(viaミシェーラ)という称号の意味にも繋がっています。

だから彼の生は「奇跡」に運ばれたものでもあるし、同時に彼自身が現実を直視して選んだ運命なのですね。レオナルドの強さについてはアニメオリジナルのホワイト/絶望王のエピソードを通じて改めてスポットが当てられるのではないでしょうか。(10巻のオルタナティヴとして)

不条理の世界で生きるっていうこと。
HLは条理の外に置かれた(ルールのない)世界なので選択を誤った人間から簡単に命を落とします。レオの例でもわかるようにHLでは剥き出しの実存がつねに世界から試されているような不条理のエートスが渦巻いている。

この前提を念頭に13王の「堕落」や「偏執」「絶望」などの原初的な感情の名を冠した「より純粋な」存在があの世界ではいちばん力を持つのだ、と考えると説得力を感じます。ブラッドブリードなんて小さな神(純粋なもの/絶対者の端くれ/マレビト)でしょう。ライブラは無秩序状態で力を持て余している彼らのような存在を封じるためのルール(=倫理)の一線を護っているんですね。ライブラの面々が技名を叫んでから殴るのも真名を呼ぶことで「より純粋な」能力を引き出すための儀礼行為だと考えると整合性が取れたりします。力を得るためにかたや名を暴き、かたや名を隠す。

守護者も人の身である以上はルールの創造主にはなれない。とはいえ条理の底が抜けた都市において人間として尊重すべき倫理の一線を護ることはできる。クラウスの説く「希望」はこの延長にあり、彼の高潔な精神はその思想を体現しています。常識が効かない世界では個人の行動が「世界の均衡」に直結する場面がある。その瞬間に均衡を護ることができるのは、もはや何が正義なのか見極められない混沌のなかで、たった今下そうとしている決断を自分の正義だと信じて選択できる勇気をもつものだけです。レオがライブラに入ることを許された理由は「世界の均衡を護る」という組織のミッションを遂行するに足る能力と精神性を認められたから、というのは既に述べたとおりです。ひとつ付け加えるのなら、ここ一番で見せる肝っ玉が見かけによらず太いということでしょうか。彼の入社条件を検討してみるとこのように力強く責任を引き受ける「勇気」をもった人間の集合がライブラという組織である、と言うこともできますね。この主体の特徴はもしかしたら前作トライガンから続く内藤漫画スピリットなのかもしれません。

『マジカル☆ニュータイプ』須川亜紀子インタビュー紹介。──大人になったあなたへ。

──須川   魔法少女が変身して大人になることの醍醐味って、きっと「大人になった自分」ではなく、「大人になれる自分」ですよ。(『ニュータイプ』10月号付録『マジカル☆ニュータイプ』より)


世間はコンプティークの話題でもちきりですが、空気を読まずに今月号のニュータイプの紹介です。

月刊『ニュータイプ』10月号の付録、別冊マジカル☆ニュータイプには『超魔法少女研究』と題され、『少女と魔法―ガールヒーローはいかに受容されたのか』の著者・須川亜紀子(敬称略・以後「須川」と表記)へのインタビューが掲載されている。今回は少しだけこれを紹介してみたい。

少女と魔法―ガールヒーローはいかに受容されたのか

少女と魔法―ガールヒーローはいかに受容されたのか

須川亜紀子 英国ウォーリック大学大学院映画テレビ学部博士課程修了。PhD(人文学博士)。関西外国語大学外国語学部専任講師。2013年、博士論文を改稿した『少女と魔法─ガールヒーローはいかに受容されたのか』を上梓し話題に。好きな魔法少女はクリィミーマミ、加賀美あつ子(本文より)

個人的な感想から入ると、女性同士の魔法少女語りということもあるせいか今まで見落としていたような着眼点があり、興味深いインタビューだった。

例えば“ほむらのタイツは魔法少女コスチュームとして珍しい” "制服みたいだ"など。いわれてみればそうだ。

余談だが、直後には聞き手からセーラムーンと比べて統一感のない「まどかマギカ」のコスチュームの印象について聞かれ、須川が「アイドルの衣装っぽいなーと思いました。色も形もバラバラで。でもだからこそメンタルの部分では繋がっているような部分があるのかなと。」と答える場面がある。この返答におけるコスプレやアイドルっぼさ、女子たちの間にある共同意識などは後の内容を示唆している。


さて本題に移ろう。これはどのような意図で編まれたテキストなのか、序文にはこのように書かれている。

   […]昔のあなたがあこがれていたのは、かわいくて、キラキラで、人気者の「あの子」。あなたが好きだったのは、「あの子」が連れていたあのモコモコした妖精。あなたは今でも「かわいい」や「キラキラ」が好きだけど、今、「あの子」の変身した姿に自分を重ねるとちょっと恥ずかしい気持ちになる。
   今もあなたの心の奥にいる「あの子」。彼女は大人になったあなたに何を伝えているのだろう

そう、本稿はすでに魔法少女を卒業してしまった「あなた」に向けて語られているインタビューだ。

本稿の特徴として挙げられるのは女性対女性のインタビュー形式を除くと「まどかマギカ」「クリィミーマミ」「AKB0048」「プリズマ☆イリヤ」などのド真ん中正統派の魔法少女をあえて題材から外しながら、隣接した想像力について語っていることだろうか。それにより客観性からは少し離れた「わたし」と「少女」と「魔法」の関係を明らかにしようとしているといえる。

たとえば須川と聞き手は、「オソロ」の欲望をかきたてるコスチュームの共同性やオルタナティブな魔法少女としてのアイドル、女の子とポジティブに結びつく歌要素などの「魔法少女的なもの」のほとりを歩きながら、あの頃憧れていた大人になったあなたに魔法少女は何を伝えているのか、という主題をめぐる。

本稿の中盤で、聞き手が「卒業後の魔法少女にも魔法少女的な生き方はできるはずだ」と語っている箇所がある。印象的なやりとりなので少し長いが以下に引用してみよう。

──魔法少女の衣装って、いくつまでいけますかね(迫真)。
須川   それはコスプレがいくつまでいけるかに近いですね(笑)。まあ、いくつでもできるんですけど。でも、現実的にはスタイルが保てる時期は限られていますからね。
──「Fate/kaleid liner プリズマ☆イリヤ」のイリヤスフイールは小学五年生なのに変身するシーンが恥ずかしくて、トイレで変身してくるんですよ。
須川   リアルですね(笑)。魔法少女のパロディって「えー、私こんなの着れるの!?」っていうのがときどきあるじゃないですか。いわゆる楽屋落ちが物語に組み込まれているのって面白いですよね。オタク心をくすぐられるというか。
──アイドルにもあるように、きっと魔法少女にも卒業のときがありますよね。でも、卒業して魔法少女に変身できなくなった後も、魔法少女的な生き方はできるはず。「他人を信じる」とか「自分自身の力を信じる」とか。こういうのって、大人になるにつれてむしろ蓄積して獲得していかなきゃいけないもののような気がします。だから、思春期というか、いわば「魔法少女期」みたいなときを恥ずかしさとともに過ごせないのはなんだかもったいないですよね。
須川   それは、私もインタビューを重ねて思いました。みんなに知られると恥ずかしいから自分を出せない。好きなんだけど好きじゃないって言っちゃう、みたいな。

変身=コスプレによって「大人になれる自分」を先取りする魔法少女。では彼女らはいつまでその衣装を着ていられるのか?  この問題はクリティカルだ。

成長する身体をもつ以上、思春期の少女は「恥」の感情を抱かずにいられない。しかしこれは須川が著書『少女と魔法』のあとがきで触れているらしい「女の子の願望としていつまでもある」とする「永遠の魔法少女」願望をともすれば忘却させてしまう。「17歳」だと言い張れば女性はいつまでも17歳でいられるというのに──。

恥ずかしいから忘れたフリをする。自然な反応だが、ならば本稿のように真剣に魔法少女について語ることも「恥ずかしい」営みのひとつに数えられてしまうのだろうか。

しかし聞き手の属性はそんな思いを吹っ飛ばしてくれる。このインタビューの聞き手「ひいろ」の紹介をみてみると「女子大生アニメライター」と書かれている。ならばこうも読めてしまう、「卒業したての魔法少女が今後の身の振り方について先輩魔女に相談している」──筋の悪い読みであることは承知しているが許されたい。「魔法」は生涯にわたって学ぶ術なのだ。
ひいろ   現役女子大生アニメライター。2013年、文芸批評サークル「BLACK PAST」の同人誌「ヱヴァンゲリヲンのすべて」に寄稿。好きな魔法少女はセーラーマーキュリー(本文より)

それにしても魔法少女の物語がこれほどあるのはなぜだろう。(そんな問いを抱くのは自分が「大人」になってしまったからなのかもしれないが。)

起源を考えようとしても男性である自分のなかには素材が少ない。クリィミーマミのように口紅ひとつで変身できると言われてもリアリティがない。そしてまた「女の子はいつまでも魔法少女でいたい」などということを当事者ではない自分には決して言うことができない。

変わらないもの、永遠の、理想の、素敵な、キラキラしている、楽しい。インタビューの中でも語られているように児童向けの作品はまず「憧れの姿」を描くことに主眼が置かれ、「やがて大人になってしまう私」に勇気を与えてくれるものだ。加えて魔法少女物の主人公たちは、「魔法少女期」を超えて大人になってからも「かつて憧れたあの姿」として胸の中に生きつづけ、物語を後押ししてくれるのだという。

とすれば実際には(誰かしらの企みによって産み落とされてるのではなく)いつからか来たる日を待ち焦がれている「あの子」の願いに応じて「あちら」からやってきてくれている存在が彼女たちなのかもしれない。そう思わされた。


以上のことは魔法と少女というモチーフを超え、ファンタジーの役割に近しいところを語っている気がする。あえて言えばその領域に踏み込む手前で語り終えていることが口惜しいが、インタビューに基調する「内に潜むあの頃のわたし」への呼びかけには同等に普遍的な力があると思う。

本稿における須川の締めの言葉は、本文ではあまり触れられていない児童アニメ(およびファンタジー)やフィクション全般に置き換えても通じるほど普遍的で、かつ切実な語りかけとなっている。これを紹介して結びに代えたい。

須川   […]私は女の子たちに自分たちの葛藤を中庸しながら、キラキラの夢を与えてくれるような魔法少女をもっと知ってくださいと言いたいと思います。最近もすばらしい作品がたくさんあるのに、「オタクの消費物でしょう」って忌避する人が多いですよね。いや、違いますよ、それは「あなたの物語」なんですよって伝えたいです。

今さらpomera DM20を購入しました。

 KINGJIMが出しているデジタルメモ「pomera DM20」を買いました。DM10の後継として2010年に発売された旧機種ですね。
KINGJIM デジタルメモ「ポメラ」 DM20 プレミアムシルバー DM20シル

KINGJIM デジタルメモ「ポメラ」 DM20 プレミアムシルバー DM20シル



 ポメラとはなにものか。
キングジムが製造販売している、「デジタルメモ」と銘打ったテキスト入力に特化した電子機器。英語表記は「pomera」。 ポメラとは - はてなキーワード

 改めてポメラの利点を挙げると、持ち運びに適したコンパクトさがあり、発熱がないために長時間の運用に耐えられることです。加えてeneloopなどの充電地と併用すれば長時間運用に際して取り回しが楽になりますね。

 公式が導線を引いている利用法は会議の議事録やちょっとしたメモ書きなどへの使用ですね。

個人的には、机の上に文具と一緒に並べていても違和感のない代物なので清書用にノートと併用したり、手元でかさばらないため書籍の引用が楽なので小説の写経なんかにも使っています。ブログなど書き物の下書きはデフォルトですね。


  • いまさらなぜ購入したのか。
 理由は2点あります。ひとつめは、もともと家に転がっていたDM10を最近ちょっとした文字書き用に使ってみたら重宝したから。

 しかしなにぶん最初期の機種なので機能が限定されているぶん使いにくく感じる場面がありました。たとえば、1)データ移行手段がUSBかmicroSD経由に限られていることや、2)一つのファイルに打ち込める文字の数の少なさや階層的なフォルダ管理ができないことなどが挙げられます。

 さてDM20はどうなのか、というとKINGJIMは1)の改善策としてQRコードの生成機能を付けたようです。これは最大3200文字のテキストを200字ごとにQRコード化し、スマートフォンなどの端末側のアプリを経由して受け取ることができるというもの。専用アプリでEvernoteやTwitterにも(いちおう)飛ばせます。

 文字数の制約もあるので「なくてはならない」ほどの機能ではないけれど、ちょっとしたデータの受け渡しができるかそうでないかの違いで普段の使用感に差が出てきます。


 余談ですが、ものごとに対する感じ方が変化する大きなきっかけに「体験」の有無がありますよね。普段使いの道具が変わるだけでショックを受けてしまうとか、ちょっとした取り回しの良さで「生活」が変わってしまう瞬間があると思います。

たとえば台所汚れに重曹を使ってみたら掃除の観念が変わって楽しくなったとか、ちょっと高価なペンやノートを手に入れてみたら「書く」という行為を見直して文字書きや考えごとが苦痛でなくなったりだとか。

 手書きとワープロでは「書かされている」文字の質感がなんとなく違うものになってしまうように、人間は手にした道具よって思考や認識の枠組みが変化します。ポジティブに考えると、ゲームなんかでも新しい道具を手に入れたとき真っ先に想像するのはそこですよね。新しい武器、防具、能力、新要素……これらによってどこがどのように変わるのか想像するのはかなり楽しい。武器や防具と同じような視線から文具を見つめ直してみるとけっこう面白いのです。「文具の再整備」は今回の購入動機の一部でもあります。


 話を元に戻すと、2)機能不備についてもベタに改善されており、全体的に洗練されているといって良いです。もともとポメラはDM10の頃からすでに完成された「文具」で、テキストエディタとして過不足の無い機能が備えられていましたからこれくらい機能が拡充すれば文句ないのです。DM100なんて、ぜ、ぜんぜんいらないのです。しかしDM20に難点があるとすれば少しかさばるようになってしまったことでしょう。最新のDM25では改善されていますが、ウリであるコンパクトさを犠牲にしてしまった格好です。


  •  二つめ理由は「安かった」から
 どうしようもなく即物的な理由ですね!
 現在DM10の相場は¥5000~¥7000程度まで下がっており上位機種であるDM20はこの一回り上の価格帯になります。定価を考えるとこれでも十分手頃な価格なのですが、ソフマップ通販などで中古品のタイムセールを折りよく見つけるとさらに安く購入できます。僕はこの方法で半ば衝動買いしてしまったわけですね。しかたないね。

 

  • まとめ

 いま買うならどの機種がいいか、というよくある質問があると思いますので一応答えておきます。

 余裕があるならコンパクトタイプの最新機種「DM25」か、二つ折りタイプの高機能機種「DM100」、どちらか好きなほう。持ち運んで運用するのか、軽さや小ささを犠牲にしても大量のテキストを作成しなければならないのかで分かれます。試しに手に入れたいor安く押さえたいなら「DM20」か「DM10」でしょうね。



おわりに、とりっくん (tricken) on Twitter作詞の"歌"を紹介しておきましょう。
替え歌「活字の海のポメラ」      ぽーめぽーめぽめ ぽめらのこ
活字の海からやってきた
ぽーめぽーめぽめ 畳まれた
ましろな鍵盤 てぷらのこ
カータカタ トーントン
QWERTY〔クワーティ〕っていいな 書いちゃお!
サークサク ピョーンピョン
付箋〔F5(えふご)〕もいいな 使っちゃお! 
あの子に向かうと 言葉も浮かぶよ
ターントゥタントゥタントン! ターントゥタントゥトゥントゥン!
軽くてかわいい 三色の
ぽーめぽーめぽめ ぽめらのこ
MobileGear〔モバギ〕の子孫ともいわれてる
ぽーめぽーめぽめ 畳まれた
ましろな鍵盤 てぷらのこ
micro SD〔まーいくろ えーすでぃー〕 成果はこれに入れちゃお!
よーくよく 調べよう ケータイからも 送れるよ!
熱を帯びないから 一緒にいられるよ
ターントゥタントゥタントン! ターントゥタントゥトゥントゥン!
クールでかわいい 三色の
ぽーめぽーめぽめ ぽめらのこ
万年筆のよに末永く
ぽーめぽーめぽめ 畳まれた
ましろな鍵盤 てぷらのこ

November 26, 2008
11 notes      Tricken's Tumblr - 替え歌「活字の海のポメラ」

パンツを脱いで関係をつくる

こんにちは。
じつは最近すこし元気がないのですが、こうして意気消沈しているときにはついつい己れの友達少なさを嘆いてしまいます(というと友人たちに怒られそうだけれど)。

こういうときに改めて思うのは、相談をもちかけられる友達は財産なんだな、ってことですね。すごく単純だけど人間関係の構築と維持を怠らないことがよりよく生きるための基本原則だと思います。心底そう思う。

では良い関係はどのように構築するのでしょうか。数は少ないものの良縁に恵まれてきた自分が友人から教わったことも含めて書いてみると、最も重要なことは自分のアイデンティティの核心にあたる欲望を上手くすくいとって楽しいと思えることに没頭することが基本なんですよね。

楽しいと思える気持ちや欲望に素直になるのが最も重要なのはモノやヒトのほとんどの関係は欲望や共感をノードに繋がっているから。

自分の領域(フェーズ)に合った人間関係を引き寄せることを目的とするなら、自分の欲望に正直になってパンツを脱ぎ、必要なら楽しげに踊ってみせるくらいのことが必要なんじゃないかと思う。

趣味が合わない人は引いて離れるだけだし、合う人なら一緒に全裸で踊ってくれる。周囲にそういう関係が見当たらず「最近つまんないなー」と思うときは内心に立ち返ることが原則だと思う。

「いま、お前はパンツを脱ぎきっているのか?」とね。

「つまんないなー」という言動をだだ漏れしていくと同じく「つまんないなー」と言っているような人間と簡単に繋がってしまうのが縁ですから、こわいですね。

あとはついでに書いておきますと、「物事と関係するイメージが巧く掴めない人間を不器用と呼ぶ」と僕は考えています。自分がぶきっちょなので実感を元に語りますが、まず衝動買いが多く秩序なくモノが増えていき、「これが魅力的に見えるには何と組み合わせたらいいのか?」という運用の視点もあまりないことが汚部屋系ぶきっちょさんたちの特徴だと思われます。

不必要なモノが増えていけばさらにイメージ(=価値観)が遠のいてしまうのに「整理」ができないんですよね。

そんなときは『人生がときめく 片づけの魔法』よろしく、快楽を基準にモノ(身の装飾)を捨ててしまうことが必要なんじゃないかと思います。

整理という行為は取捨選択のなかで自分のなかに埋れていた価値基準を再認知してあげるものです。なので次にその空白を埋めるモノは自分の理想形により合致するようになっているんじゃないか。

ヒトやモノの関係はもともと欲望で繋がっていますから価値観の見直しと基準をもとにした整理の重要性は共通するのではないでしょうか。

総括すると……

みな、パンツを、脱ぐのだ。

ヌグト、トモダチ、デキル、タノシイ