FGO第2部序を終えて
ふせったーに書こうとしたらやけに長くなってしまったのでこちらに書いておく。
第2部序と特番を終えての感想です。(当然のようにネタバレ)
昨晩は第2部序開放からこっち、情報が多すぎて混乱し、特番のテンションが乱高下したこともあって疲れた。ただこれまで考えてもいなかったほど大きな風呂敷が広げられて興奮したまま年越しを迎えた気がする。そんな気がする。騙されているのかもしれない。
それはそれとして第2部のことを考えてみる。
以前自分で抑圧された名もなき人類史が怨嗟の声を上げる「人類史オルタ」が敵として現れる漠然とした展開を妄想していたことはあるけど、それだとあくまで人類史のif(第1部の射程)を抜けきることができないから、今回のように人類が選びとってきた歴史を「汎人類史」と定義した上で、別の(今の人類でないものたちによる)可能性が牙を剥き、星の座をめぐる覇権争いとして演じることにしたのは上手いと思いました。奈須きのこ伝奇SFの真骨頂だなあという気がしている。
これはいわば「星」の潜勢力なのであって第1部で書かれていたような人類史の潜勢力ではない。わかりやすく物語のレベルが一段階上がっている。この違いは大きいと思う。
その意味で哲学・現代思想的にはメイヤスー(『有限性の後で…』)的な「この世界は全く別様でもありうる」という世界像を思い起こさせる。
メイヤスーの著述は、私たち人類が科学的探求によって得てきた宇宙観を「事実」とした上で、近現代哲学的な人間の認識とモノの世界が強く結びつけられた思考を相関主義的思考と批判しながら、相関主義の外側にあるはずの(科学のように世界の基盤に根ざしていると思われている)「事実」すら、どこかで確率的に変更される可能性があると考えるものだった。FGO第2部で示された世界観はこのような思考の延長にあるものだと考えることもできる。
第1部では、初め人類の積み重ねてきた人類史のif(人類史の可能性)が語られ、やがてそれは神の時代(魔術世界)と決別した「人間の歴史」として再帰的に書き直されることになる。人類は神々という親元から離れ、魔術という庇護のない世界を生きることにしたのだ、と。魔法や魔術の実在を謳いながら、そうした神秘に対して人間の意志を上位に置く姿勢はFate / stay nightでも共通していた。
このように第1部で書き出された人類の歴史は、第2部で「汎人類史」と呼ばれることになる。この言葉は人類史を相対化しており、あきらかに人類史が辿ることのなかった「星の歴史」全体を意識した書き方になっている。
いまだ語られることのない星の歴史全体を意識すれば、そのなかで人類史として部分的に定着してきた「事実」は相対化され、星の座をめぐる物語は語り直されうるものとなる。
第1部が人類という個の自我構造が生み出したif(やり直し)の物語だとすれば、第2部はそれすらも相対化して人類種に対して他者として存在するもの(忘れられた星の歴史や滅びてしまった他種の怨嗟)についての物語が主題になるのだろう。それは奈須世界では人類より上位に存在する星の可能性を問うものだ。
これらを踏まえて第2部の着想を書き出せば以下のようになる。人類の能力ではたった一つの歴史を知ることしかできないが、実は(汎人類史とは違う)この星が辿りうるすべての歴史を反映させた「汎歴史」──という、人間の認識を超えて存在する「物自体」が存在する。また、汎歴史(今まで人類が認識できなかった世界全体)の全面化は、とりもなおさず、第1部で乗り越えたはずの外部性・超越性(他の可能性や神秘の力)がふたたび別の形で人類の前に姿をあらわすことに他ならない。
汎歴史の登場によって現生人類の辿った「事実」としての人類史(神秘なき人間の世界)は相対化され、この世界は一夜にして別様に変わりうるものになってしまった。いや、すでに複数の原理や価値観が覇権を争う世界に変わってしまったのである。変更可能になった世界においてメイヤスーは神による全面的な救済可能性を語るが、奈須が語るのはそうではなく、人と神を交えた神話の再演だ。この世界を再創造すること。第1部でゲーティアと渡り合ってきたような異なる価値観同士のぶつかり合いが(おそらく)これより7度以上も行われることになる。星の座をめぐる神話がふたたび始まろうとしているのだ
(世界が再神話化する局面に神秘を秘匿することを目的とする聖堂協会が現れ、その代行者として人間の倫理を相対化してしまう言峰綺礼が出張ってくるのは納得ができる。)
以上、第2部序と特番を終えての感想でした。
Fate-EXTRA-月姫(や鋼の大地)などで今まで断片的に語られてきた「タイプ・ムーン」(あるいはタイプ・アース)の物語の到達点として、今作では奈須ワールドの視野を広げきってくれたらファンとしても嬉しい。
身体と魂のファンタズム──「アカーシャの舷窓」感想。
読み終えた!!!
こちらは前記事で感想を書いた「心造少女」の作者・妹尾ありかさんのC92新作で、同一世界観の短編集です。
これは非常に重要なことですが、装丁が可愛いです。
ただし内容には対応していないため警戒が必要。
詳しくは後述しますが、前評判どおり第一編「海の蜻蛉、妖精の幻」が短編らしくシンプルに構成されていて読後の満足感が高い。他が悪いのではなく短編というジャンルを考えると突出して出来が良い、という感じ。
以下ネタバレ。
収録作は三篇。
「海の蜻蛉、妖精の幻」
「アカーシャの舷窓」
「ブルースフィア・サブマリンショウ」
・「海の蜻蛉、妖精の幻」
・あらすじ
ホオズキとヒイロは、軍事組織に所属せず社会生活に入ったはずの艦娘が所属施設から行方不明になる「神隠し」事件を追っていた。ホオズキによる潜入捜査も不発に終わり、彼女たちは復元管理区域に足を踏み入れることになる。そこは深海棲艦上陸や妖精炉の暴走によって被災し、妖精由来技術(微細粒子)による土地の復元が行われている場所だった。物騒な連中が身を潜めるなら絶好の場所である、と同時にホオズキにとってはどこか薄気味悪い感覚を覚える場所であった。ホオズキの予感は当たり、彼女の意識はいつの間にか幻想へと引きこまれてしまう……。
ホオズキが復元管理区域で反芻する「ーーお前たちは陸の上では生きられない」という声は、提督による呪いの言葉だ。悪性変異した微細資源が見せる幻想のなかでホオズキは提督を思わせる海色機関支給のオイルライターを拾った直後、「彼」に襲われる。性的倒錯者であったことが伺える提督は彼女の体をつうじて心の内にまで浸入し、本人亡き後も亡霊のように彼女の心を縛っていた。精神の檻に囚われ失調する寸前、ホオズキはヒイロに助けられる。失踪した艦娘たちは調査のためにこの地に踏み入れたときにホオズキが受けたような「呪い」によって正常さを失い、悪性変異した微細資源に取り込まれてしまったのである。妖精による「迷い家」の仕組みを看破した彼女らは最後に微細資源の制御を正常化してこの地を去る。
・感想
妹尾さんの小説はファーストショット(掴み)がとても良い。潜入捜査からヒイロ登場、復元管理地域に至るまでのシークエンスが格好いいですね。潜入捜査のシーンにもインパクトがある。ホオズキは違法風俗の摘発のためにオーナーと寝るのだが、この行為にはどこか人工物としての自分を突き放して見ている感覚があり、この常人との「ズレ」が後々効いてくる。
「心造少女」のときと同じく、今回も艦娘の名が伏せられたまま進行する。ホオズキが退役の折りに艦娘としての名を返上しているという事情もあるが、艦娘の名と個人の名を分ける試みが物語に効果的に出ている。このエピソードでは艦娘固有の呪術に関するイメージと、ホオズキが艦娘であった時の心の傷(=個人の特異性)を分けることで艦娘/少女の複雑な二重性を表現している。
ホオズキとヒイロの艦娘名は龍驤とあきつ丸。ともに呪術的なモチーフがあるためにこの話に起用されていたことが最後に明かされる。
思うに、ヒイロの口から語られる「迷い家」から物を持ち帰った人物は幸福になるという伝承は、過去の呪縛と向き合ったホオズキを勇気づける言葉になっている。他の艦娘は呪いに抗うことができずに死んでしまった。固有名のあるヒトとしてではなく、匿名のモノとして去らねばならなかった。虐殺の悲劇性は虐殺があったことではなく、殺されたのが誰でもよかったこと、すなわち固有名が匿名(数値)になってしまうことにある、と東浩紀が処女論文「ソルジェニーツィン試論ーー確率の手触り」で書いていたことを頭の片隅で思い浮かべる。
彼女たちとホオズキの違いはやはり、ホオズキが退役後もずっと戦ってきた事実にあるのだろう。社会の澱みや、そして自分自身と。最終的にはヒイロに助けられた格好になってはいるが、この場所でヒイロと共にいることもホオズキのギフトであり、彼女が戦ってきたことで得られたものだ。挫折を受けてなお負けないこと、それがヒトとして生きることであり、死に場所を自分で選ぶという固有名のあるヒトの尊厳=幸福にも関わってくる。
・表題作「アカーシャの舷窓」
・文庫裏のあらすじを引用する。
「とある実験の為構築された公海上の人工島と通信が断絶した。実態調査に派遣されたのは《妖精機関》の曙と皐月。彼らの標的は深海棲艦にあらず、《悪性変異》した艦娘の成れの果てである。(中略)凄惨かつ幻想的なサイコポエティックSF短編集。ーーこれは妖精が記述する、取るに足らない断章だ。」
・感想
凄惨かつ幻想的なサイコポエティックSF。凄惨ってワードが紹介に書かれているの、初めて見た。
それはともかく、表題作の「アカーシャの舷窓」は本文68頁(33頁~101頁)の短編だが、構想としては長~中編くらいのボリュームになっている。「心造少女」の冒頭で登場した曙と皐月が主人公になので前日譚といってもいいのかもしれない。「心造」では早々に退場してしまった曙+皐月と夕張+由良の詳細が語られる。曙+皐月に負けず劣らず夕張+由良はアツい。是百合。
サイコポエティックなだけあって(?)お話はハード。初っぱなから悪性変異してしまった艦娘と戦うことになり、その艦娘の有様もグロテスクだ。描写が、というよりモノとしての艦娘のハードウェアがハッキングされている様子がグロテスクに映る。
そしてさらにハードなのは、モノ扱いされているのが「敵」だけでなく妖精機関所属の曙と皐月も同じ境遇にいることだ。かつて使い捨ての駒にされて両目を失った皐月、非適性艦娘として生を受けたがゆえに屈辱と罪を背負った曙。彼女たちは失意のなかで選ぶ余地なき選択をし、強化(エンハンス)されている。彼女たちには多くの艦娘を統べる軍事組織である海色機関には敵対心があり、今回の調査でも結果的に巨大組織である海色機関の鼻を明かすようにごく少数で事件を解決することになる。より正確に言うと海色機関への敵対心よりも自分が艦娘、しかも不完全な艦娘であるということへの理不尽さを強く抱いている。
終盤、アカーシャと曙が対面する場面で、「深海棲艦との終わらない戦争を引き延ばす。それが海色機関が求める適性(あるべき姿)」だというアカーシャに対して、曙が「だったら、最初から全部決められた(プログラム)通りに動くように造れッ!」と啖呵を切る。だがアカーシャは反論するのでなく、それに同意する。なぜなら彼女たちも曙と同じように解体処分を診断された非適性艦娘の集合体(成れの果て)だったからだ。
アカーシャの目的は妖精式解析機関を乗っ取り、人間を支配することだった。それは人間への復讐であり、勝手な理由で自分たちを死の淵に追いやった人類に対する怨嗟だ。人類の守護者たりうる基準から零落した非適性・不適格者の集まりであるはずの妖精機関の艦娘・曙は、アカーシャのルサンチマンに同調しなかった。なぜか。それはかつての自分の姿がそこにあったからだ。
曙はかつて解体を逃れるために提督に隷属を誓わされ、屈辱的な折檻を受けていた。だがそれは提督が曙の身を守るためについた嘘だった。提督に不正隠蔽を選択させたのは曙自身の弱さだった。そのために心が磨耗した提督は自ら死を選んだ。自分が生き延びることだけを考えていた弱さが、誰よりも自分の身を考えてくれていたひとを殺した。曙はその後、解体される間際に選択を強いられる。解体されるか、改造されて生き延びるか。生き延びたいがために提督を殺してしまった曙にとって、安易に死ぬことを選ぶことはできない。どんな苛烈な道が待っていようと、生きることが彼女の責任だった。あるものを選んだ以上、責任を取らなければ自分が自分でなくなってしまう。
アカーシャのルサンチマンは他人に責任のすべてを背負わせる。その態度は、同じようにして他人を害してしまった曙にとって決して相容れなものだ。解体された艦娘の無念は存在するだろう。だがその責任を他者に押しつけようとすれば、何かを選択しながら生きていく主体も同時にいなくなってしまう。結果的に、アカーシャの目論見は他ならぬ妖精機関の手によって阻止される。
アカーシャと比べて曙や皐月の清々しい態度には自由を感じる。それは妖精機関の艦娘たちが巨視的な人類や深海棲艦の存在とは離れたところで、自分たちが生きるために生きているからだろう。そこには、過去に向き合う意思はあれど大義のような大文字の責任や意志の観念は希薄だ。彼女たちはつむじ風のような一個の現象(あるいは妖精)として、人類の守護や深海棲艦の殲滅という大目的からスピンアウトし、個として世界と向き合っている。それは絶えず傷つくことになるしんどいポジションだが、そのような「中動態」*1的な在り方が自由さを感じさせるのかもしれない。
ところで、やはりこのエピソードは(どこかでも言われていたように)長編向けの物語だと思う。そのためダイジェスト感があることは否めない。用語説明などがやや多めに感じるのも全体の尺が圧縮されているためだろう。ただ、器からあふれんばかりの熱情が込められた歪さこそを本作の美点としたい。
・「ブルースフィア・サブマリンショウ」
・簡単なあらすじ
深海棲艦が現れて以来、長い間途絶していた大型旅客船の運行が行われた。旅客船内の娯楽演目「ブルースフィア・サブマリンショウ」を担当する潜水艦イムヤは恋人である船員の男性と体を重ねるうちに自らの退役(あがり)を意識するようになる。そんな折、妖精機関の響がイムヤの部屋を訪れる。彼女はある音源を探しており、イムヤは恋人がその音源を所持していることを告げた。
・感想
これはフィニクスフヴォーストのスピンオフとして書かれているので見落としているところがあるかもしれないのだけど、それ以上に直情型の朝霜くんとクールビューティ響の凸凹百合が強烈で頭がやられてしまった。
ところどころで出てくるイムヤの「胎が疼く」という表現もえっちだった。朝霜響の濡れ場が見たい。ラストで響がイムヤに好意を向けられてバリタチ女っぽくなっているのがとてもよくて、嗚呼、響はこういう運命の元に生まれてきた実質ネコの外見バリタチ女なんだろうなと思いつつ色々考えてしまう。
退役=あがりの概念は橋本しのぶさんの艦これ二次創作「虚ろの海」シリーズくらいでしか知らないのだけど、そこそこ使われてるのかな。そうでもない気がするけど、直感的にわかりやすくて良い。
本編は、短編らしくこの世界の広がりを感じられて良いと思った。海の安全をアピールするパフォーマンスとして旅客船を運営したり、艦娘が競技に従事する設定などは、妖精技術と並行して資本主義経済が回っていると自然に発生するものだと思う。また競技者として艦娘の地位が向上すると人権らしきものが立ち現れてくるのがおもしろい。その反面でアングラなサブマリンショウが行われていた過去があったことを匂わされたり、実際にイムヤが売られようとしているところを見ると混沌とした近未来の縮図を見ているようで情報量が多くてよい。
キャラクターが自由に行動しているので好きなエピソードでした。響くんつよい。それにしても朝霜と響には並々ならぬ著者の愛情を感じます。
まとめ
「心造少女」に引き続き上手いなあ、と思いながら読んでいたらサクッと読めてしまった。そして感想はだいぶ長くなってしまった。今作は前作FBを読んでから再読するとまた印象が変わると思うので、また帰ってきたい。
*1:中動態とは古代語に存在する言語態で、能動態と対立する態のこと。能動態は「主体の内から始まる行為が主体の外で完結する」行為である一方、中動態は「主体の内から始まる行為が主体の内で完結する」行為を指す。能動と受動では「する/される」でしか行為を記述できないが、國分功一郎『中動態の世界』のなかでは、それではカツアゲを説明できないと述べられている。カツアゲは加害者に脅された被害者が金を差し出す行為だが、外から見ると被害者が自分の意志で金を差し出しているように見えてしまう。これを中動態的に「主体の内から始まる行為が主体の内で完結する」状態すなわち「外からの影響を受けて主体の内側が変化する」モデルで考えると、カツアゲされたことで被害者は自らの意志と関係なく金を差し出す状態に変化してしまった、ということができる。「する/される」ではなく「ある」。現象が主体のなかに展開しているイメージ。ここでは特定の目的のために生まれたはずの艦娘が自身の望む・望まざる変化によって別の目的を見つけ生成変化していくプロセスと中動態を重ねている
禁じられた力を持つ艦娘たちの戦い──妹尾ありか「心造少女(1)」感想。
妹尾ありか「心造少女(1)」(サークルありや刊)読み終わりました。
すげーーーー面白かった。
戦闘もカッコいいし、展開も上手い。
これは「艦これ」を知らなくても読むべきです。というか、妹尾ありかという優れた書き手を知るべき。この人は小説が上手い!!!やったぜ!!!
あと天津風があの衣装を纏っている理由づけがされているのがとてもよく、恥ずかしがっている様子にとてつもないフェチを感じた。少女の描き方全般に艶があって良い……。
そもそも「心造少女」というのは、響を主人公とした前作「フィニクスフヴォースト」シリーズと同一世界観を有した、妹尾ありかさんの艦これ二次創作の新シリーズ一作目(全三作)です。boothで電子書籍版が買えるようですね。
心造少女 - ありや - BOOTH(同人誌通販・ダウンロード)
https://ariya.booth.pm/items/421369
一覧に移動すると前作も買えます。
文庫裏の紹介文も載せておきましょう。
<──四十一・八九度の鼓動。平均体温のプラス五度。これが私を造る心の温度。
ブランデンブルグ発日本行きの旅客機が「我ら、深海棲艦に会敵せり」と残し、上空一万メートルで行方を眩ませた。一方、大規模風力発電農場に住む少女・カレンは、ある日、風力タワーの中で自分とよく似た少女に出会う。転がりだす運命。軍事作戦に適性を持たないと見做された「非適性艦娘」たち。彼らは科学へ身を捧げ、獲得した新たな「力」とともに第二のキャリアを歩む。
禁じられた力を持つ艦娘たちの戦いを描くテクノスリラーSF、第一章>
以下はネタバレ有りの、ちょっと冷静な感想になります。
僕は前作は未読なのだけど、生体兵器としての艦娘が生きる世界が見事に表現されていた。驚いた。それは描き方にも表れていて、冒頭、飛行機上の場面から主人公であるカレンの物語に移るまでに、この物語に必要な描写が丁寧に積み重ねられていることからもよくわかる。
この世界について、人類の脅威について、脅威がどのように現れるのか、そして脅威に対してどう戦っているのか。そして主人公の少女が登場すると、彼女がどう見られ、それに対してどう感じているか、また日常生活をどう過ごしているのか。
表紙から見て取れるように、これは天津風の物語なのだけど、終盤になるまで天津風は「艦娘・天津風」としての自覚を持っていない。物語のある場面まで主人公は「少女・カレン」として生き、行動している。ちなみに読者たる僕は「艦これ」をあまりプレイしていない(少し触れた程度)ので、天津風が何型の何番艦なのかすらもよく知らない。でもカレンという少女の物語を読む上では「艦これ」の事前情報を持っていない読者でも充分楽しく読むことができる。むしろ開陳される情報がどれも新鮮なので事前情報がないほど楽しめるかもしれない。
もちろん二次創作なのでキャラクターの描写は原典の印象に委ねて省略されることもある。ただ、この作品が優れているのは原典のキャラクターを「この世界」というフィルターにかけることで再解釈していることだ。それは終盤に出てくる二重人格の艦娘に顕著で、彼女のようにひとつの船体にふたつの人格が同居する艦娘が存在するのは「艦これの二次創作」としては偏りがあるのかもしれない。しかしSFとして考えるならとても正しい、と強く肯定したい。
謎めいた妖精技術を基幹とする高度に発達した近未来世界や、生体兵器として陸上でも活動する強大な艦娘の存在、そして艦娘の陰画のように振る舞う深海棲艦の恐ろしさを考えると、可憐な少女イメージを持った原典の艦娘のままよりも、彼女たちの在り方のほうがマッチする。序盤、カレンが男性に欲望の視線に晒されていることにも注意されたい。この場面にはこの社会の欲望が端的に表れている。後半、行方不明の艦娘が生じる理由についてヒトの欲望が引き合いに出されるけど、これも人類社会に艦娘を外挿した結果であると考えればとてもSF的だ。
SFに関連づけていうなら、この作品は生体兵器としての艦娘を特殊な能力をもつ能力者(エンハンサー)として扱っていることから冲方丁の「マルドゥック」シリーズや「シュピーゲル」シリーズに重ねられるだろう。とりわけ前者の「マルドゥック・ヴェロシティ」などは数多くの能力者が異形相手にドンパチを繰り広げる大胆かつ凄惨な物語だが、こと能力と戦闘の描き方については「心造少女」と共振するものを多く感じる。
また、カレンが初めて艦娘としての力に目覚めて深海棲艦と交戦し、暴走のあまり力に溺れてしまうシーンは「マルドゥック・スクランブル」の主人公・バロットの暴走(能力の濫用)のシーンのイメージと重なる。しかしここで僕は、ことさら本作と先行作との類似を指摘したいのではない。本作の設定や場面は先行作を単純になぞったようには描かれていない。本作は主題を描く上で避けられないものを物語の要請に応じて描いている。少なくともそう感じさせる圧がある。「マルドゥック・スクランブル」において冲方丁がそうであったように、「心造少女」の著者からは、この物語を描く以上は避けることのできない障害を躊躇なく主人公の目の前に置き、彼女自身の手で克服させようという強い意思を感じるのだ。
本作の最後に、カレン=天津風はひとつの選択を強いられる。育ての親ともいうべきユキが苦境に立たされている状況を救うために彼女の行動が必要だった。自らの身を捧げるか、それとも他者と戦う道か。前者は稀少な能力をもつカレンが生きながら被験体となること。後者はカレンと同じように行方不明となった艦娘を調査・追跡・回収・解体すること。それは同時に「自分と同じだったかもしれない娘たちとの、終わりなき戦い」だとも言われる。
"由良は厳しい表情を浮かべる。「それはつまり、チームに加わった場合、あなたは戦うことを余儀なくされるということ。それも[死ぬまで/原文傍点]。自分と同じ、あるいは、自分と同じだったかもしれない娘たちとの、終わりなき戦い。それはあなたが居たウィンドファームでの、安全や平穏の生活とは程遠い。『水族館』の水槽の中で、あなたさえ痛みに耐えればいいだけの生活とも違う。あなたは[生きるために誰かを害する/原文傍点]ことを、受け入れなくてはならない」" (「心造少女(1)」173頁)
かくして怯えがちで心優しい少女として(ときには搾取の対象とさえ)描かれてきたカレンは、後者──生体兵器として他者と闘いながら生きる道を選ぶことになる。引用文の前段にあるように、彼女には「有用性を示す必要がある」。有用性。今は他人から与えられた形式的な目的に過ぎないが、いずれは自らの意思によって改めて別の形で示す必要があるものだと予感させるフレーズ。
強力な生体兵器としての艦娘。
ずば抜けて魅力的な外見をもっている艦娘。
まるでヒトとは違う彼女たちにも人並みの自我があり、生きたいと願う心がある。
ヒトであり、ヒトでないものが、ヒトの世界で生きる意味とは何なのか。このような問いを内包した視点をカレンという少女は担っているように思う。彼女は「自分と同じだったかもしれない娘」と戦わなければならない。それは同時にカレン自身がヒトであることの意味、その輪郭を探る旅になるはずだ。
この物語の行く先に注目していきたい。
願わくば、報われざること一つとしてなからんことを。
映画「この世界の片隅に」感想。(ネタバレあり)
片渕須直監督・こうの史代原作の映画「この世界の片隅に」を観た。どうしようもなく泣いてしまった。観た後にひと肌が恋しくなる映画だ。あるいは観ている最中にも。愛する人が傷ついていく姿はどうしようもなく苦しくてつらい。こんなに苦しみにまみれている世界だから、せめて愛し/愛される相手を主体的に選ぼうとするのかもしれない。何かや誰かに選ばれ、運ばれ、ときに自分でも選ぶ番がやってくる……。
原作はまだ読んでいませんが、これから必ず読みます。売り切れていたパンフレットも欲しい……。
はじめに、片淵監督を筆頭に映画制作に尽力くださった関係者の方には感謝が尽きません。さまざまな困難があったにもかかわらずのんさんを主演に据えてくださったことにも感謝しています。いまやのんさんの声なしにすずさんは想像できません。素晴らしい映画でした。まだ観ていない人は観に行こう。ほんと。
さて、じつはこの映画のクラウドファンディング開始時に僕も(原作も未読であったにもかかわらず)小額ながら参加させていただきました。なにか直感が働いたのかもしれない。しかし実際に映画を観て、さらにこの文章を書いている今も動揺が収まらなくて何を書いたらいいのかわからない。むしろ何を感じているのかはっきりさせるためにおそるおそる書いてみようと思う。
以下ネタバレ。
戦争のこと
「太平洋戦争」というとき、ひとはどのようなイメージを思い起こすのだろう。史実、過去、戦争を描いた小説や漫画、映画、アニメとともに、あるいは戦争体験を語る言葉……。太平洋戦争のイメージは私たちの時代に多く伝わっていて、戦後70年を超えた今でもぼんやりと「過去の悲惨な記憶」として受け継がれている。
私的な記憶について少し書く。僕はおそらく戦争経験を持った親族のいるほぼ最後の世代になるだろう。母方の祖父は末期に従軍していたものの、戦場に出る前に東南アジア周辺の海上で飢えかけたところで終戦を迎えて帰ってきたらしい。戦時中のことで祖父から聴いたことはあまりない。彼は悲惨な記憶をあえて親族に伝えようとは思わなかったのかもしれない。戦時中の「おかしな」日常を茶化すように「万歳三唱」をしたり、冗談を飛ばすことはあっても他のことをあまり聴いた記憶はなかった。戦争が終わって祖母と結婚すると親族から借りた金で土地を買って自営業を始め、祖母と母たちを育てた。身体が頑健だった祖父は80近くになるまで外仕事に精を出していた。 彼は戦後に自分の人生を選んだのだ。
太平洋戦争の時代に生を受けたことは祖父には選びようがない。自分には選びようのない大きな時代のうねりに巻き込まれ、故郷から遠く離れた嘘みたいな場所で死にかけて戻ることになって、たぶん日本に戻ってから彼も何か大切なものを失ったのだとは思う。亡くなってしまったいまでは知ることができないけれど、とにかくそこから新しい人生を選んだことだけは子孫である僕は知っている。
「すず」の世界について
前置きが長くなった。そろそろ映画の話に戻ろう。この物語には「すず」という女性が大きな時代のうねりに巻き込まれ、身の回りが困窮していくなかでも何とか生活していく姿が描き込まれている。時代がどうなっていくのか「すず」の近くで寄り添っている観客の視点からは伺い知ることはできない。ただ彼女が生きている時代が何年何月のどこであるかは示される。観客と「すず」の大きな違いは、僕たちが戦争という「日常」がどのようにして終わるのか理解している一方でスクリーンの向こう側にいる彼女たちには全く分からないということだ。そうはいっても観客は「すず」たちがこれからどうなるのかわからない。大きな結末だけはわかっているのに登場人物がどうなってしまうのか分からないサスペンスフルな状態で物語は進んでいく。
僕は原作を読まないまま映画を観ていたので、実際に彼女たちがどうなるのか知らずに命運を見守ることになった。どんな人生にも誕生があって、幼児期の記憶があって、それから大人になっていく。すずさんにとって大人になることは嫁に行くことだった。ほとんど相手のことを知らずに嫁いでいって、その家に入っても現実感のないすずさんの姿に僕は不安になった。すずさんを知る彼女の家族と同じように不安になったに違いない。それからいろいろなことがあって夫の周作さんや嫁ぎ先の家族のことも深く知るようになり、義理のお姉さんや姪っ子とも仲良くなっていく。……と同時に戦争は激化していって彼女の住む家も空襲に巻き込まれていく。配給も少なくなり食糧が不足していくなかでもすずさんはやりくりをして家族の食事を作っていく。すずさんはぼんやりしているけど働きものだ。でも、好きな家族のために家族のひとりひとりが一生懸命になるのはいつの時代でも同じかもしれない。
すずさんの人生には絵と空想が一緒に踊っている。自分の感情が動かされたときにすずさんは絵を描く。すずさんが絵を描くことについて周りも好ましく思っていることが見ていて伝わってくる。それはとても彼女らしい行為だからだと思う。ぼんやりしていていつも現実から一歩遅れて生きているように見えて、周りが足早に過ぎ去っていくような風景にも目を留めてじっくりと観察している、すずさんはそんな女性だった。すずさんの描く絵は彼女にとっての現実であり、彼女にしか感じ尽くせない視点から描かれている。この世界にはひとりにひとつぶん場所が与えられていて、すずさんは精一杯踏みとどまりながら、そこから見える景色を誰かに伝えようとしていつも鉛筆を握っていたような気がする。物語のなかでも絵をきっかけに他人と繋がっていくことは多い。この世界から半歩遊離しているすずさんにとって現実と接続するために「絵」という媒体があったのだと思う。
すずさんが現実と接続するための「絵」という媒体を失ったあとも「この世界」は続いていく。切断の痕跡がすずさんの身体に刻まれたことを観客は見せつけられ、それ以上に巨大な喪失の経験がすずさんの精神を蝕んでいることを痛感させられる。何かを失ってもこの世界は続いていく。誰かの大事な記憶を追体験するには一部を聞きかじっただけでは不十分なのだろう。大切なものの重みも、喪失の耐え難さも、それだけではなかった日々の生活の欠けがえのなさも、すべての「意味」は人生という全体性のなかで位置づけられてこそ立ち現れてくる。
初めのほうで観客は「「すず」の近くで寄り添っている」と書いた。たしかに前半部ではそうなのだけれど終盤の展開に差し掛かるとその印象を変えずにはいられない。僕たち観客がすずを「見る」ことの意味は両義的だ。一方で観客は彼女に寄り添っているように見えるけれど他方ではスクリーンに阻まれて彼女に対して何もできない無力さを露呈してしまう。ただ起きたことを観る。このことにどんな意味があるのか。それはこの映画が徹底的に虚構として(絵として)描かれていることと深く関係しているように思えてならない。*1
酷薄な世界と対峙しながら生きる
非日常のなかでも人間が生活を営んでいた事実は忘れがちになる。とはいっても手がかりがなければ想像することもできない。この映画は、どんな時代にあっても人間を取り巻く世界は根本的には変わらないことをまざまざと見せつけてくる。当たり前の喜び、不安、哀しさ、貧しさ、ひもじさがそこにある。そして世界の酷薄さは今よりもむき出しになっている。この世界の延長で僕の祖父も同じように生きていたのだろう。冒頭で記したように、僕は祖父の生を断片的にしか知らない。というより自分のものでさえ人生の全体を知ることは不可能だ。過去の記憶はすぐに忘れられていく。どんなに衝撃的な記憶さえも忘却や改変からは逃れられない。僕たちはつねに不完全な現実を生きることを運命づけられている。不完全な現実から仮の全体性を想像することで複雑な世界を何とか生きているのだ。
この映画を観るとき僕にはすずさんとともに生きながら「あの世界」の経験を作り出していく感覚があった。もっといえばすずさんの作り出した視点を借りることで同時代を生きているように感じていた。すずさんが認識している世界像がスクリーンに投影され、僕たち観客にも共有されていたといってもよい。それはすずさんが絵を描くことによって共有していた風景を、観客はすずさんが絵を描けなくなったあとも見続けていることに他ならない。この「すずさんの視線」が失われていないことで観客はすずさんがそれでもまだ世界との接続を断っていないことを知るのだ。その接続、希望は本人が望む/望まぬにかかわらず得た人間関係のなかにあった。かけがえのないものはそれと分からずに自分の手のなかにあって知らずのうちに自分を助けてくれているのかもしれない。
最後に
人間は不完全な現実を生きているとさきに書いた。複雑な世界に対して有限な情報しか処理できないために不完全に歪められた現実しか生きられないからだ。そのような意味で、つねに僕たちは虚構に生きているのかもしれない。この映画で描かれるすずさんの世界と同じように記憶や認識が伸び縮みする不安定な状態に置かれ、断片的にしか情報を受け取れない存在として、人間はこの世界にいる。根源的に主体は世界のほうでちっぽけな人間は客体の側(=片隅)にとどまるしかない。それでもなお身の回りの生活を続けたり、関係を育んだり、想像の世界をつくることで酷薄な世界に対峙しながら「淡く」「弱い」人間的な世界で生きていく。今まで生きてきた事実を抱きしめながら、これからも生き抜いていくのだ。僕たちも、すずさんと同じように。
*1:この点について記事のなかであまり深く触れるつもりはないが軽く書き出してみようと思う。(以下は東浩紀氏の「この世界の片隅に」と「君の名は。」を風景の点から論じた2016/11/20のツイートから強く影響を受けている。)「この世界の片隅に」が描くのはリアルな風景ではない。戦争という題材に迫真性(リアリティ)を与えたいのなら写実的な風景を使ったほうが上手くいくだろう。しかしこのアニメ映画はむしろ徹底的に虚構として描かれている。もちろんすずを取り巻く世界は現実を忠実に再現し緻密に描き込まれているが、キャラクターと風景はともに淡いタッチに溶け込んでいて、どちらも同じような絵としての質感をもっている。絵と現実が混じり合った世界の虚構性が序盤から繰り返し強調されているように(周作との出会いのエピソードなど)、すずは現実と自分の生をうまく溶けこませることができず、現実から解離した視点から世界を虚構的に見ている。それが表現のレベルでも表れている。このように全体を虚構として描いていくからこそ「この世界の片隅に」の「世界」はすずの視線と分離不可能な迫真性を獲得している。そうした虚構的なすずの世界を眺めることで、同時に私たち観客も世界を虚構的にしか認識できていないことを知るのだろう。
TVA血界戦線初回メモ:レオナルド・ウォッチは目を逸らさない
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須川亜紀子 英国ウォーリック大学大学院映画テレビ学部博士課程修了。PhD(人文学博士)。関西外国語大学外国語学部専任講師。2013年、博士論文を改稿した『少女と魔法─ガールヒーローはいかに受容されたのか』を上梓し話題に。好きな魔法少女はクリィミーマミ、加賀美あつ子(本文より)
[…]昔のあなたがあこがれていたのは、かわいくて、キラキラで、人気者の「あの子」。あなたが好きだったのは、「あの子」が連れていたあのモコモコした妖精。あなたは今でも「かわいい」や「キラキラ」が好きだけど、今、「あの子」の変身した姿に自分を重ねるとちょっと恥ずかしい気持ちになる。
今もあなたの心の奥にいる「あの子」。彼女は大人になったあなたに何を伝えているのだろう
──魔法少女の衣装って、いくつまでいけますかね(迫真)。
須川 それはコスプレがいくつまでいけるかに近いですね(笑)。まあ、いくつでもできるんですけど。でも、現実的にはスタイルが保てる時期は限られていますからね。
──「Fate/kaleid liner プリズマ☆イリヤ」のイリヤスフイールは小学五年生なのに変身するシーンが恥ずかしくて、トイレで変身してくるんですよ。
須川 リアルですね(笑)。魔法少女のパロディって「えー、私こんなの着れるの!?」っていうのがときどきあるじゃないですか。いわゆる楽屋落ちが物語に組み込まれているのって面白いですよね。オタク心をくすぐられるというか。
──アイドルにもあるように、きっと魔法少女にも卒業のときがありますよね。でも、卒業して魔法少女に変身できなくなった後も、魔法少女的な生き方はできるはず。「他人を信じる」とか「自分自身の力を信じる」とか。こういうのって、大人になるにつれてむしろ蓄積して獲得していかなきゃいけないもののような気がします。だから、思春期というか、いわば「魔法少女期」みたいなときを恥ずかしさとともに過ごせないのはなんだかもったいないですよね。
須川 それは、私もインタビューを重ねて思いました。みんなに知られると恥ずかしいから自分を出せない。好きなんだけど好きじゃないって言っちゃう、みたいな。
ひいろ 現役女子大生アニメライター。2013年、文芸批評サークル「BLACK PAST」の同人誌「ヱヴァンゲリヲンのすべて」に寄稿。好きな魔法少女はセーラーマーキュリー(本文より)
須川 […]私は女の子たちに自分たちの葛藤を中庸しながら、キラキラの夢を与えてくれるような魔法少女をもっと知ってくださいと言いたいと思います。最近もすばらしい作品がたくさんあるのに、「オタクの消費物でしょう」って忌避する人が多いですよね。いや、違いますよ、それは「あなたの物語」なんですよって伝えたいです。
今さらpomera DM20を購入しました。
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キングジムが製造販売している、「デジタルメモ」と銘打ったテキスト入力に特化した電子機器。英語表記は「pomera」。 ポメラとは - はてなキーワード
- いまさらなぜ購入したのか。
- 二つめ理由は「安かった」から
- まとめ
替え歌「活字の海のポメラ」 ぽーめぽーめぽめ ぽめらのこ
活字の海からやってきた
ぽーめぽーめぽめ 畳まれた
ましろな鍵盤 てぷらのこ
カータカタ トーントン
QWERTY〔クワーティ〕っていいな 書いちゃお!
サークサク ピョーンピョン
付箋〔F5(えふご)〕もいいな 使っちゃお!
あの子に向かうと 言葉も浮かぶよ
ターントゥタントゥタントン! ターントゥタントゥトゥントゥン!
軽くてかわいい 三色の
ぽーめぽーめぽめ ぽめらのこ
MobileGear〔モバギ〕の子孫ともいわれてる
ぽーめぽーめぽめ 畳まれた
ましろな鍵盤 てぷらのこ
micro SD〔まーいくろ えーすでぃー〕 成果はこれに入れちゃお!
よーくよく 調べよう ケータイからも 送れるよ!
熱を帯びないから 一緒にいられるよ
ターントゥタントゥタントン! ターントゥタントゥトゥントゥン!
クールでかわいい 三色の
ぽーめぽーめぽめ ぽめらのこ
万年筆のよに末永く
ぽーめぽーめぽめ 畳まれた
ましろな鍵盤 てぷらのこ
November 26, 2008
11 notes Tricken's Tumblr - 替え歌「活字の海のポメラ」