映画「この世界の片隅に」感想。(ネタバレあり)

片渕須直監督・こうの史代原作の映画「この世界の片隅に」を観た。どうしようもなく泣いてしまった。観た後にひと肌が恋しくなる映画だ。あるいは観ている最中にも。愛する人が傷ついていく姿はどうしようもなく苦しくてつらい。こんなに苦しみにまみれている世界だから、せめて愛し/愛される相手を主体的に選ぼうとするのかもしれない。何かや誰かに選ばれ、運ばれ、ときに自分でも選ぶ番がやってくる……。

原作はまだ読んでいませんが、これから必ず読みます。売り切れていたパンフレットも欲しい……。

はじめに、片淵監督を筆頭に映画制作に尽力くださった関係者の方には感謝が尽きません。さまざまな困難があったにもかかわらずのんさんを主演に据えてくださったことにも感謝しています。いまやのんさんの声なしにすずさんは想像できません。素晴らしい映画でした。まだ観ていない人は観に行こう。ほんと。

さて、じつはこの映画のクラウドファンディング開始時に僕も(原作も未読であったにもかかわらず)小額ながら参加させていただきました。なにか直感が働いたのかもしれない。しかし実際に映画を観て、さらにこの文章を書いている今も動揺が収まらなくて何を書いたらいいのかわからない。むしろ何を感じているのかはっきりさせるためにおそるおそる書いてみようと思う。

以下ネタバレ。

戦争のこと

「太平洋戦争」というとき、ひとはどのようなイメージを思い起こすのだろう。史実、過去、戦争を描いた小説や漫画、映画、アニメとともに、あるいは戦争体験を語る言葉……。太平洋戦争のイメージは私たちの時代に多く伝わっていて、戦後70年を超えた今でもぼんやりと「過去の悲惨な記憶」として受け継がれている。

私的な記憶について少し書く。僕はおそらく戦争経験を持った親族のいるほぼ最後の世代になるだろう。母方の祖父は末期に従軍していたものの、戦場に出る前に東南アジア周辺の海上で飢えかけたところで終戦を迎えて帰ってきたらしい。戦時中のことで祖父から聴いたことはあまりない。彼は悲惨な記憶をあえて親族に伝えようとは思わなかったのかもしれない。戦時中の「おかしな」日常を茶化すように「万歳三唱」をしたり、冗談を飛ばすことはあっても他のことをあまり聴いた記憶はなかった。戦争が終わって祖母と結婚すると親族から借りた金で土地を買って自営業を始め、祖母と母たちを育てた。身体が頑健だった祖父は80近くになるまで外仕事に精を出していた。 彼は戦後に自分の人生を選んだのだ。

太平洋戦争の時代に生を受けたことは祖父には選びようがない。自分には選びようのない大きな時代のうねりに巻き込まれ、故郷から遠く離れた嘘みたいな場所で死にかけて戻ることになって、たぶん日本に戻ってから彼も何か大切なものを失ったのだとは思う。亡くなってしまったいまでは知ることができないけれど、とにかくそこから新しい人生を選んだことだけは子孫である僕は知っている。

「すず」の世界について

前置きが長くなった。そろそろ映画の話に戻ろう。この物語には「すず」という女性が大きな時代のうねりに巻き込まれ、身の回りが困窮していくなかでも何とか生活していく姿が描き込まれている。時代がどうなっていくのか「すず」の近くで寄り添っている観客の視点からは伺い知ることはできない。ただ彼女が生きている時代が何年何月のどこであるかは示される。観客と「すず」の大きな違いは、僕たちが戦争という「日常」がどのようにして終わるのか理解している一方でスクリーンの向こう側にいる彼女たちには全く分からないということだ。そうはいっても観客は「すず」たちがこれからどうなるのかわからない。大きな結末だけはわかっているのに登場人物がどうなってしまうのか分からないサスペンスフルな状態で物語は進んでいく。

僕は原作を読まないまま映画を観ていたので、実際に彼女たちがどうなるのか知らずに命運を見守ることになった。どんな人生にも誕生があって、幼児期の記憶があって、それから大人になっていく。すずさんにとって大人になることは嫁に行くことだった。ほとんど相手のことを知らずに嫁いでいって、その家に入っても現実感のないすずさんの姿に僕は不安になった。すずさんを知る彼女の家族と同じように不安になったに違いない。それからいろいろなことがあって夫の周作さんや嫁ぎ先の家族のことも深く知るようになり、義理のお姉さんや姪っ子とも仲良くなっていく。……と同時に戦争は激化していって彼女の住む家も空襲に巻き込まれていく。配給も少なくなり食糧が不足していくなかでもすずさんはやりくりをして家族の食事を作っていく。すずさんはぼんやりしているけど働きものだ。でも、好きな家族のために家族のひとりひとりが一生懸命になるのはいつの時代でも同じかもしれない。

すずさんの人生には絵と空想が一緒に踊っている。自分の感情が動かされたときにすずさんは絵を描く。すずさんが絵を描くことについて周りも好ましく思っていることが見ていて伝わってくる。それはとても彼女らしい行為だからだと思う。ぼんやりしていていつも現実から一歩遅れて生きているように見えて、周りが足早に過ぎ去っていくような風景にも目を留めてじっくりと観察している、すずさんはそんな女性だった。すずさんの描く絵は彼女にとっての現実であり、彼女にしか感じ尽くせない視点から描かれている。この世界にはひとりにひとつぶん場所が与えられていて、すずさんは精一杯踏みとどまりながら、そこから見える景色を誰かに伝えようとしていつも鉛筆を握っていたような気がする。物語のなかでも絵をきっかけに他人と繋がっていくことは多い。この世界から半歩遊離しているすずさんにとって現実と接続するために「絵」という媒体があったのだと思う。

すずさんが現実と接続するための「絵」という媒体を失ったあとも「この世界」は続いていく。切断の痕跡がすずさんの身体に刻まれたことを観客は見せつけられ、それ以上に巨大な喪失の経験がすずさんの精神を蝕んでいることを痛感させられる。何かを失ってもこの世界は続いていく。誰かの大事な記憶を追体験するには一部を聞きかじっただけでは不十分なのだろう。大切なものの重みも、喪失の耐え難さも、それだけではなかった日々の生活の欠けがえのなさも、すべての「意味」は人生という全体性のなかで位置づけられてこそ立ち現れてくる。

初めのほうで観客は「「すず」の近くで寄り添っている」と書いた。たしかに前半部ではそうなのだけれど終盤の展開に差し掛かるとその印象を変えずにはいられない。僕たち観客がすずを「見る」ことの意味は両義的だ。一方で観客は彼女に寄り添っているように見えるけれど他方ではスクリーンに阻まれて彼女に対して何もできない無力さを露呈してしまう。ただ起きたことを観る。このことにどんな意味があるのか。それはこの映画が徹底的に虚構として(絵として)描かれていることと深く関係しているように思えてならない。*1

酷薄な世界と対峙しながら生きる

非日常のなかでも人間が生活を営んでいた事実は忘れがちになる。とはいっても手がかりがなければ想像することもできない。この映画は、どんな時代にあっても人間を取り巻く世界は根本的には変わらないことをまざまざと見せつけてくる。当たり前の喜び、不安、哀しさ、貧しさ、ひもじさがそこにある。そして世界の酷薄さは今よりもむき出しになっている。この世界の延長で僕の祖父も同じように生きていたのだろう。冒頭で記したように、僕は祖父の生を断片的にしか知らない。というより自分のものでさえ人生の全体を知ることは不可能だ。過去の記憶はすぐに忘れられていく。どんなに衝撃的な記憶さえも忘却や改変からは逃れられない。僕たちはつねに不完全な現実を生きることを運命づけられている。不完全な現実から仮の全体性を想像することで複雑な世界を何とか生きているのだ。

この映画を観るとき僕にはすずさんとともに生きながら「あの世界」の経験を作り出していく感覚があった。もっといえばすずさんの作り出した視点を借りることで同時代を生きているように感じていた。すずさんが認識している世界像がスクリーンに投影され、僕たち観客にも共有されていたといってもよい。それはすずさんが絵を描くことによって共有していた風景を、観客はすずさんが絵を描けなくなったあとも見続けていることに他ならない。この「すずさんの視線」が失われていないことで観客はすずさんがそれでもまだ世界との接続を断っていないことを知るのだ。その接続、希望は本人が望む/望まぬにかかわらず得た人間関係のなかにあった。かけがえのないものはそれと分からずに自分の手のなかにあって知らずのうちに自分を助けてくれているのかもしれない。

最後に

人間は不完全な現実を生きているとさきに書いた。複雑な世界に対して有限な情報しか処理できないために不完全に歪められた現実しか生きられないからだ。そのような意味で、つねに僕たちは虚構に生きているのかもしれない。この映画で描かれるすずさんの世界と同じように記憶や認識が伸び縮みする不安定な状態に置かれ、断片的にしか情報を受け取れない存在として、人間はこの世界にいる。根源的に主体は世界のほうでちっぽけな人間は客体の側(=片隅)にとどまるしかない。それでもなお身の回りの生活を続けたり、関係を育んだり、想像の世界をつくることで酷薄な世界に対峙しながら「淡く」「弱い」人間的な世界で生きていく。今まで生きてきた事実を抱きしめながら、これからも生き抜いていくのだ。僕たちも、すずさんと同じように。

*1:この点について記事のなかであまり深く触れるつもりはないが軽く書き出してみようと思う。(以下は東浩紀氏の「この世界の片隅に」と「君の名は。」を風景の点から論じた2016/11/20のツイートから強く影響を受けている。)「この世界の片隅に」が描くのはリアルな風景ではない。戦争という題材に迫真性(リアリティ)を与えたいのなら写実的な風景を使ったほうが上手くいくだろう。しかしこのアニメ映画はむしろ徹底的に虚構として描かれている。もちろんすずを取り巻く世界は現実を忠実に再現し緻密に描き込まれているが、キャラクターと風景はともに淡いタッチに溶け込んでいて、どちらも同じような絵としての質感をもっている。絵と現実が混じり合った世界の虚構性が序盤から繰り返し強調されているように(周作との出会いのエピソードなど)、すずは現実と自分の生をうまく溶けこませることができず、現実から解離した視点から世界を虚構的に見ている。それが表現のレベルでも表れている。このように全体を虚構として描いていくからこそ「この世界の片隅に」の「世界」はすずの視線と分離不可能な迫真性を獲得している。そうした虚構的なすずの世界を眺めることで、同時に私たち観客も世界を虚構的にしか認識できていないことを知るのだろう。