禁じられた力を持つ艦娘たちの戦い──妹尾ありか「心造少女(1)」感想。

妹尾ありか「心造少女(1)」(サークルありや刊)読み終わりました。
すげーーーー面白かった。

戦闘もカッコいいし、展開も上手い。
これは「艦これ」を知らなくても読むべきです。というか、妹尾ありかという優れた書き手を知るべき。この人は小説が上手い!!!やったぜ!!!
あと天津風があの衣装を纏っている理由づけがされているのがとてもよく、恥ずかしがっている様子にとてつもないフェチを感じた。少女の描き方全般に艶があって良い……。

そもそも「心造少女」というのは、響を主人公とした前作「フィニクスフヴォースト」シリーズと同一世界観を有した、妹尾ありかさんの艦これ二次創作の新シリーズ一作目(全三作)です。boothで電子書籍版が買えるようですね。

心造少女 - ありや - BOOTH(同人誌通販・ダウンロード)
https://ariya.booth.pm/items/421369

一覧に移動すると前作も買えます。

文庫裏の紹介文も載せておきましょう。

<──四十一・八九度の鼓動。平均体温のプラス五度。これが私を造る心の温度。

ブランデンブルグ発日本行きの旅客機が「我ら、深海棲艦に会敵せり」と残し、上空一万メートルで行方を眩ませた。一方、大規模風力発電農場に住む少女・カレンは、ある日、風力タワーの中で自分とよく似た少女に出会う。転がりだす運命。軍事作戦に適性を持たないと見做された「非適性艦娘」たち。彼らは科学へ身を捧げ、獲得した新たな「力」とともに第二のキャリアを歩む。

禁じられた力を持つ艦娘たちの戦いを描くテクノスリラーSF、第一章>


以下はネタバレ有りの、ちょっと冷静な感想になります。


僕は前作は未読なのだけど、生体兵器としての艦娘が生きる世界が見事に表現されていた。驚いた。それは描き方にも表れていて、冒頭、飛行機上の場面から主人公であるカレンの物語に移るまでに、この物語に必要な描写が丁寧に積み重ねられていることからもよくわかる。

この世界について、人類の脅威について、脅威がどのように現れるのか、そして脅威に対してどう戦っているのか。そして主人公の少女が登場すると、彼女がどう見られ、それに対してどう感じているか、また日常生活をどう過ごしているのか。

表紙から見て取れるように、これは天津風の物語なのだけど、終盤になるまで天津風は「艦娘・天津風」としての自覚を持っていない。物語のある場面まで主人公は「少女・カレン」として生き、行動している。ちなみに読者たる僕は「艦これ」をあまりプレイしていない(少し触れた程度)ので、天津風が何型の何番艦なのかすらもよく知らない。でもカレンという少女の物語を読む上では「艦これ」の事前情報を持っていない読者でも充分楽しく読むことができる。むしろ開陳される情報がどれも新鮮なので事前情報がないほど楽しめるかもしれない。

もちろん二次創作なのでキャラクターの描写は原典の印象に委ねて省略されることもある。ただ、この作品が優れているのは原典のキャラクターを「この世界」というフィルターにかけることで再解釈していることだ。それは終盤に出てくる二重人格の艦娘に顕著で、彼女のようにひとつの船体にふたつの人格が同居する艦娘が存在するのは「艦これの二次創作」としては偏りがあるのかもしれない。しかしSFとして考えるならとても正しい、と強く肯定したい。

謎めいた妖精技術を基幹とする高度に発達した近未来世界や、生体兵器として陸上でも活動する強大な艦娘の存在、そして艦娘の陰画のように振る舞う深海棲艦の恐ろしさを考えると、可憐な少女イメージを持った原典の艦娘のままよりも、彼女たちの在り方のほうがマッチする。序盤、カレンが男性に欲望の視線に晒されていることにも注意されたい。この場面にはこの社会の欲望が端的に表れている。後半、行方不明の艦娘が生じる理由についてヒトの欲望が引き合いに出されるけど、これも人類社会に艦娘を外挿した結果であると考えればとてもSF的だ。

SFに関連づけていうなら、この作品は生体兵器としての艦娘を特殊な能力をもつ能力者(エンハンサー)として扱っていることから冲方丁の「マルドゥック」シリーズや「シュピーゲル」シリーズに重ねられるだろう。とりわけ前者の「マルドゥック・ヴェロシティ」などは数多くの能力者が異形相手にドンパチを繰り広げる大胆かつ凄惨な物語だが、こと能力と戦闘の描き方については「心造少女」と共振するものを多く感じる。

また、カレンが初めて艦娘としての力に目覚めて深海棲艦と交戦し、暴走のあまり力に溺れてしまうシーンは「マルドゥック・スクランブル」の主人公・バロットの暴走(能力の濫用)のシーンのイメージと重なる。しかしここで僕は、ことさら本作と先行作との類似を指摘したいのではない。本作の設定や場面は先行作を単純になぞったようには描かれていない。本作は主題を描く上で避けられないものを物語の要請に応じて描いている。少なくともそう感じさせる圧がある。「マルドゥック・スクランブル」において冲方丁がそうであったように、「心造少女」の著者からは、この物語を描く以上は避けることのできない障害を躊躇なく主人公の目の前に置き、彼女自身の手で克服させようという強い意思を感じるのだ。

本作の最後に、カレン=天津風はひとつの選択を強いられる。育ての親ともいうべきユキが苦境に立たされている状況を救うために彼女の行動が必要だった。自らの身を捧げるか、それとも他者と戦う道か。前者は稀少な能力をもつカレンが生きながら被験体となること。後者はカレンと同じように行方不明となった艦娘を調査・追跡・回収・解体すること。それは同時に「自分と同じだったかもしれない娘たちとの、終わりなき戦い」だとも言われる。

"由良は厳しい表情を浮かべる。「それはつまり、チームに加わった場合、あなたは戦うことを余儀なくされるということ。それも[死ぬまで/原文傍点]。自分と同じ、あるいは、自分と同じだったかもしれない娘たちとの、終わりなき戦い。それはあなたが居たウィンドファームでの、安全や平穏の生活とは程遠い。『水族館』の水槽の中で、あなたさえ痛みに耐えればいいだけの生活とも違う。あなたは[生きるために誰かを害する/原文傍点]ことを、受け入れなくてはならない」" (「心造少女(1)」173頁)

かくして怯えがちで心優しい少女として(ときには搾取の対象とさえ)描かれてきたカレンは、後者──生体兵器として他者と闘いながら生きる道を選ぶことになる。引用文の前段にあるように、彼女には「有用性を示す必要がある」。有用性。今は他人から与えられた形式的な目的に過ぎないが、いずれは自らの意思によって改めて別の形で示す必要があるものだと予感させるフレーズ。

強力な生体兵器としての艦娘。
ずば抜けて魅力的な外見をもっている艦娘。
まるでヒトとは違う彼女たちにも人並みの自我があり、生きたいと願う心がある。
ヒトであり、ヒトでないものが、ヒトの世界で生きる意味とは何なのか。このような問いを内包した視点をカレンという少女は担っているように思う。彼女は「自分と同じだったかもしれない娘」と戦わなければならない。それは同時にカレン自身がヒトであることの意味、その輪郭を探る旅になるはずだ。
この物語の行く先に注目していきたい。

願わくば、報われざること一つとしてなからんことを。