FGO第2部序を終えて

ふせったーに書こうとしたらやけに長くなってしまったのでこちらに書いておく。

第2部序と特番を終えての感想です。(当然のようにネタバレ)

 

昨晩は第2部序開放からこっち、情報が多すぎて混乱し、特番のテンションが乱高下したこともあって疲れた。ただこれまで考えてもいなかったほど大きな風呂敷が広げられて興奮したまま年越しを迎えた気がする。そんな気がする。騙されているのかもしれない。

それはそれとして第2部のことを考えてみる。

以前自分で抑圧された名もなき人類史が怨嗟の声を上げる「人類史オルタ」が敵として現れる漠然とした展開を妄想していたことはあるけど、それだとあくまで人類史のif(第1部の射程)を抜けきることができないから、今回のように人類が選びとってきた歴史を「汎人類史」と定義した上で、別の(今の人類でないものたちによる)可能性が牙を剥き、星の座をめぐる覇権争いとして演じることにしたのは上手いと思いました。奈須きのこ伝奇SFの真骨頂だなあという気がしている。

これはいわば「星」の潜勢力なのであって第1部で書かれていたような人類史の潜勢力ではない。わかりやすく物語のレベルが一段階上がっている。この違いは大きいと思う。

その意味で哲学・現代思想的にはメイヤスー(『有限性の後で…』)的な「この世界は全く別様でもありうる」という世界像を思い起こさせる。

メイヤスーの著述は、私たち人類が科学的探求によって得てきた宇宙観を「事実」とした上で、近現代哲学的な人間の認識とモノの世界が強く結びつけられた思考を相関主義的思考と批判しながら、相関主義の外側にあるはずの(科学のように世界の基盤に根ざしていると思われている)「事実」すら、どこかで確率的に変更される可能性があると考えるものだった。FGO第2部で示された世界観はこのような思考の延長にあるものだと考えることもできる。

第1部では、初め人類の積み重ねてきた人類史のif(人類史の可能性)が語られ、やがてそれは神の時代(魔術世界)と決別した「人間の歴史」として再帰的に書き直されることになる。人類は神々という親元から離れ、魔術という庇護のない世界を生きることにしたのだ、と。魔法や魔術の実在を謳いながら、そうした神秘に対して人間の意志を上位に置く姿勢はFate / stay nightでも共通していた。

このように第1部で書き出された人類の歴史は、第2部で「汎人類史」と呼ばれることになる。この言葉は人類史を相対化しており、あきらかに人類史が辿ることのなかった「星の歴史」全体を意識した書き方になっている。

いまだ語られることのない星の歴史全体を意識すれば、そのなかで人類史として部分的に定着してきた「事実」は相対化され、星の座をめぐる物語は語り直されうるものとなる。

第1部が人類という個の自我構造が生み出したif(やり直し)の物語だとすれば、第2部はそれすらも相対化して人類種に対して他者として存在するもの(忘れられた星の歴史や滅びてしまった他種の怨嗟)についての物語が主題になるのだろう。それは奈須世界では人類より上位に存在する星の可能性を問うものだ。

これらを踏まえて第2部の着想を書き出せば以下のようになる。人類の能力ではたった一つの歴史を知ることしかできないが、実は(汎人類史とは違う)この星が辿りうるすべての歴史を反映させた「汎歴史」──という、人間の認識を超えて存在する「物自体」が存在する。また、汎歴史(今まで人類が認識できなかった世界全体)の全面化は、とりもなおさず、第1部で乗り越えたはずの外部性・超越性(他の可能性や神秘の力)がふたたび別の形で人類の前に姿をあらわすことに他ならない。

汎歴史の登場によって現生人類の辿った「事実」としての人類史(神秘なき人間の世界)は相対化され、この世界は一夜にして別様に変わりうるものになってしまった。いや、すでに複数の原理や価値観が覇権を争う世界に変わってしまったのである。変更可能になった世界においてメイヤスーは神による全面的な救済可能性を語るが、奈須が語るのはそうではなく、人と神を交えた神話の再演だ。この世界を再創造すること。第1部でゲーティアと渡り合ってきたような異なる価値観同士のぶつかり合いが(おそらく)これより7度以上も行われることになる。星の座をめぐる神話がふたたび始まろうとしているのだ

(世界が再神話化する局面に神秘を秘匿することを目的とする聖堂協会が現れ、その代行者として人間の倫理を相対化してしまう言峰綺礼が出張ってくるのは納得ができる。)


以上、第2部序と特番を終えての感想でした。

Fate-EXTRA-月姫(や鋼の大地)などで今まで断片的に語られてきた「タイプ・ムーン」(あるいはタイプ・アース)の物語の到達点として、今作では奈須ワールドの視野を広げきってくれたらファンとしても嬉しい。