みちきんぐ「新妻編集月本(旧姓)さん」(単話)の感想

快楽天」2018.3月号掲載のみちきんぐ『新妻編集月本(旧姓)さん』をkomiflohttps://komiflo.com/)で読んだ。

これがめっっちゃえっちでよかったのと、技巧的にも素晴らしかったので感想を書いておく。
ツイッターで書こうとしたけど発売日なのでやめておいた。komifloはいいぞ。

あらすじは以下。
売れっ子エロ漫画家と結婚した編集者の月本さんは、夫が多忙なあまりご無沙汰な日々が続いていた。そこに同僚の女性編集者が月本さんの夫に「唾をつけてある」と吹き込み、奮起した彼女は夫をその気にさせるために夫の漫画に出てくる嗜虐的なヒロインに扮して……という内容。

■ヒロインの多面性が描かれているすごくいい作品

はじめに書いておくと、この漫画の良さは、ヒロインの「顔」(キャラ)が物語内で数度変わることにある。

(1)日常的な姿(地の顔)
(2)ドSな痴女を演じた姿(キャラの顔)
(3)痴女の演技が崩れつつプレイを続ける姿(キャラと地が混ざった状態)
(4)痴女の演技がなくなったことで本音が露呈した姿(キャラの仮面も日常の仮面も捨て、夫の妻になった状態)

上記のようにである。ありていに言えば夫に対して本音を言うことができない妻が、キャラクターの仮面をもちいることで本性を出し、ついには仮面も捨てて夫と気持ちをぶつけ合うに至る過程を描いている。

順に追っていこう。
まだ未読の諸氏は快楽天を読んで一息ついたあとにでも読んで気持ちを共有してほしい。

(1)登場時の月本さんはスタイルは良いが自分に自信のない女性として描かれている。
(2)だが、そんな彼女がシーンの移り変わりとともに扇情的なサディストヒロイン=『佐倉さん』として再登場する。"あの月本さん"を知っている読者たる私たちは扇情的な言動と格好に劣情を煽られてしまうのである。

(3)しかし月本さんによるサディストの演技は長続きせず、恥ずかしがりながら漫画に登場した痴女プレイ(足コキ)をするものの、すでに痴女の趣はなく地の顔が出てきてしまっている。

漫画の作者である夫がここで、
「『佐倉さん』ならここは嗜虐的に主の性器を虐める足コキシーンだが…」
「演じきれずに段々と…地の優しさが滲み出てきてしまっている…っ!」
と、月本さんの演技が不完全になっていることをモノローグで指摘するところが良い。

元ネタを参照することができない読者は、モノローグの情報と補足的に描かれる『佐倉さん』の姿から予想することでしか月本さんの演技の不完全さ(キャラとの間にある差異)を伺い知ることができない。「正反対ぶり」と「演技の不完全さ」が見えることが重要なのだ。月本さんが正反対のキャラクターを演じようとして破綻してしまっていることが描かれることで「新妻が頑張って夫を性的に振り向かせようとしている」本作の強みが存分に出ている。

「『佐倉さん』はこんなキャラではない…」「だがこれは…これは凄く——っ!」と夫は足コキで一度果てる。
(この直後、精をかけられた月本さんのお顔がとてもいい)

(4)そう、「『佐倉さん』はこんなキャラではない」のだ。

このあと、演技によって自分の気持ちを夫に気づかせることに成功した月本さんは地の状態のまま夫との和合を果たす。だがそこには初めにいた「地味な新妻」も「ドSな痴女」もおらず、キャラを演じることで自分の気持ちと快楽に正直になった「地の地の顔」になった月本さん——夫の妻としての彼女の顔がここで初めて現れるのである。
「佐倉さん」を演じるコードから外れた月本さんは、すでに「佐倉さん」ではないため「キャラ崩壊」している。加えて「エロ漫画ヒロインの佐倉さん」とともに「編集者としての月本さん」の仮面も捨てられ、彼女はついに「乱れている妻」になってしまったのである。これは大変なことだ。いかにもな痴女がエロいことを徹底するのではなく--それはそれでいいのだが--痴女の演技が途中で破綻することによって「優しい性格で恥ずかしがり屋のままなのにプレイは淫乱な妻」という、催眠モノにはない和姦トランスというべきシーンが描かれている。

■余談。『佐倉さん』は典型的な痴女キャラクターなので「キャラが薄い」。しかしこれが有名作のパロヒロインなどであればヒロインの印象を食ってしまうので、このバランスが素晴らしい。(顔や髪型はほぼ変えずに衣装と表情の違いで差別化しているのでヒロインのバリュエーションとして見られ、ヒロインに集中できる)

あとサブヒロインもめっちゃかわいい。ちゃんとえっちなシーンも用意されてるのがありがたい。夫婦が「本音」を伝え会った後にサブヒロインである同僚の「本音」が語られる構成も美しい。

■まとめ
本作は、ひとつのキャラクターのなかにさまざまな形で複数の顔が覗かせる様子を楽しむお話だ。これがすごく現実の女の子っぽくてよく、単話で描かれているところにも筆力を感じた。

現実の性交渉のみならず日常的なコミュニケーションのなかでも人間は(SMプレイ以外でも)演技的に振る舞うことがある。それがすべてロールプレイ(演技)なのかといえば一概にそうとは言えない。コミュニケーションが密になると、相手を喜ばせようとする演技的な顔(ネタ)と飾らない地の部分(ベタ)が入り混じった非日常的な顔が生まれることがある。そしてそういうときにこそ自他の輪郭が曖昧になるような強烈な快楽が生まれるように思う。みちきんぐ先生のめっちゃえっちな本作を読みながらそんなことを考えた。