『マジカル☆ニュータイプ』須川亜紀子インタビュー紹介。──大人になったあなたへ。

──須川   魔法少女が変身して大人になることの醍醐味って、きっと「大人になった自分」ではなく、「大人になれる自分」ですよ。(『ニュータイプ』10月号付録『マジカル☆ニュータイプ』より)


世間はコンプティークの話題でもちきりですが、空気を読まずに今月号のニュータイプの紹介です。

月刊『ニュータイプ』10月号の付録、別冊マジカル☆ニュータイプには『超魔法少女研究』と題され、『少女と魔法―ガールヒーローはいかに受容されたのか』の著者・須川亜紀子(敬称略・以後「須川」と表記)へのインタビューが掲載されている。今回は少しだけこれを紹介してみたい。

少女と魔法―ガールヒーローはいかに受容されたのか

少女と魔法―ガールヒーローはいかに受容されたのか

須川亜紀子 英国ウォーリック大学大学院映画テレビ学部博士課程修了。PhD(人文学博士)。関西外国語大学外国語学部専任講師。2013年、博士論文を改稿した『少女と魔法─ガールヒーローはいかに受容されたのか』を上梓し話題に。好きな魔法少女はクリィミーマミ、加賀美あつ子(本文より)

個人的な感想から入ると、女性同士の魔法少女語りということもあるせいか今まで見落としていたような着眼点があり、興味深いインタビューだった。

例えば“ほむらのタイツは魔法少女コスチュームとして珍しい” "制服みたいだ"など。いわれてみればそうだ。

余談だが、直後には聞き手からセーラムーンと比べて統一感のない「まどかマギカ」のコスチュームの印象について聞かれ、須川が「アイドルの衣装っぽいなーと思いました。色も形もバラバラで。でもだからこそメンタルの部分では繋がっているような部分があるのかなと。」と答える場面がある。この返答におけるコスプレやアイドルっぼさ、女子たちの間にある共同意識などは後の内容を示唆している。


さて本題に移ろう。これはどのような意図で編まれたテキストなのか、序文にはこのように書かれている。

   […]昔のあなたがあこがれていたのは、かわいくて、キラキラで、人気者の「あの子」。あなたが好きだったのは、「あの子」が連れていたあのモコモコした妖精。あなたは今でも「かわいい」や「キラキラ」が好きだけど、今、「あの子」の変身した姿に自分を重ねるとちょっと恥ずかしい気持ちになる。
   今もあなたの心の奥にいる「あの子」。彼女は大人になったあなたに何を伝えているのだろう

そう、本稿はすでに魔法少女を卒業してしまった「あなた」に向けて語られているインタビューだ。

本稿の特徴として挙げられるのは女性対女性のインタビュー形式を除くと「まどかマギカ」「クリィミーマミ」「AKB0048」「プリズマ☆イリヤ」などのド真ん中正統派の魔法少女をあえて題材から外しながら、隣接した想像力について語っていることだろうか。それにより客観性からは少し離れた「わたし」と「少女」と「魔法」の関係を明らかにしようとしているといえる。

たとえば須川と聞き手は、「オソロ」の欲望をかきたてるコスチュームの共同性やオルタナティブな魔法少女としてのアイドル、女の子とポジティブに結びつく歌要素などの「魔法少女的なもの」のほとりを歩きながら、あの頃憧れていた大人になったあなたに魔法少女は何を伝えているのか、という主題をめぐる。

本稿の中盤で、聞き手が「卒業後の魔法少女にも魔法少女的な生き方はできるはずだ」と語っている箇所がある。印象的なやりとりなので少し長いが以下に引用してみよう。

──魔法少女の衣装って、いくつまでいけますかね(迫真)。
須川   それはコスプレがいくつまでいけるかに近いですね(笑)。まあ、いくつでもできるんですけど。でも、現実的にはスタイルが保てる時期は限られていますからね。
──「Fate/kaleid liner プリズマ☆イリヤ」のイリヤスフイールは小学五年生なのに変身するシーンが恥ずかしくて、トイレで変身してくるんですよ。
須川   リアルですね(笑)。魔法少女のパロディって「えー、私こんなの着れるの!?」っていうのがときどきあるじゃないですか。いわゆる楽屋落ちが物語に組み込まれているのって面白いですよね。オタク心をくすぐられるというか。
──アイドルにもあるように、きっと魔法少女にも卒業のときがありますよね。でも、卒業して魔法少女に変身できなくなった後も、魔法少女的な生き方はできるはず。「他人を信じる」とか「自分自身の力を信じる」とか。こういうのって、大人になるにつれてむしろ蓄積して獲得していかなきゃいけないもののような気がします。だから、思春期というか、いわば「魔法少女期」みたいなときを恥ずかしさとともに過ごせないのはなんだかもったいないですよね。
須川   それは、私もインタビューを重ねて思いました。みんなに知られると恥ずかしいから自分を出せない。好きなんだけど好きじゃないって言っちゃう、みたいな。

変身=コスプレによって「大人になれる自分」を先取りする魔法少女。では彼女らはいつまでその衣装を着ていられるのか?  この問題はクリティカルだ。

成長する身体をもつ以上、思春期の少女は「恥」の感情を抱かずにいられない。しかしこれは須川が著書『少女と魔法』のあとがきで触れているらしい「女の子の願望としていつまでもある」とする「永遠の魔法少女」願望をともすれば忘却させてしまう。「17歳」だと言い張れば女性はいつまでも17歳でいられるというのに──。

恥ずかしいから忘れたフリをする。自然な反応だが、ならば本稿のように真剣に魔法少女について語ることも「恥ずかしい」営みのひとつに数えられてしまうのだろうか。

しかし聞き手の属性はそんな思いを吹っ飛ばしてくれる。このインタビューの聞き手「ひいろ」の紹介をみてみると「女子大生アニメライター」と書かれている。ならばこうも読めてしまう、「卒業したての魔法少女が今後の身の振り方について先輩魔女に相談している」──筋の悪い読みであることは承知しているが許されたい。「魔法」は生涯にわたって学ぶ術なのだ。
ひいろ   現役女子大生アニメライター。2013年、文芸批評サークル「BLACK PAST」の同人誌「ヱヴァンゲリヲンのすべて」に寄稿。好きな魔法少女はセーラーマーキュリー(本文より)

それにしても魔法少女の物語がこれほどあるのはなぜだろう。(そんな問いを抱くのは自分が「大人」になってしまったからなのかもしれないが。)

起源を考えようとしても男性である自分のなかには素材が少ない。クリィミーマミのように口紅ひとつで変身できると言われてもリアリティがない。そしてまた「女の子はいつまでも魔法少女でいたい」などということを当事者ではない自分には決して言うことができない。

変わらないもの、永遠の、理想の、素敵な、キラキラしている、楽しい。インタビューの中でも語られているように児童向けの作品はまず「憧れの姿」を描くことに主眼が置かれ、「やがて大人になってしまう私」に勇気を与えてくれるものだ。加えて魔法少女物の主人公たちは、「魔法少女期」を超えて大人になってからも「かつて憧れたあの姿」として胸の中に生きつづけ、物語を後押ししてくれるのだという。

とすれば実際には(誰かしらの企みによって産み落とされてるのではなく)いつからか来たる日を待ち焦がれている「あの子」の願いに応じて「あちら」からやってきてくれている存在が彼女たちなのかもしれない。そう思わされた。


以上のことは魔法と少女というモチーフを超え、ファンタジーの役割に近しいところを語っている気がする。あえて言えばその領域に踏み込む手前で語り終えていることが口惜しいが、インタビューに基調する「内に潜むあの頃のわたし」への呼びかけには同等に普遍的な力があると思う。

本稿における須川の締めの言葉は、本文ではあまり触れられていない児童アニメ(およびファンタジー)やフィクション全般に置き換えても通じるほど普遍的で、かつ切実な語りかけとなっている。これを紹介して結びに代えたい。

須川   […]私は女の子たちに自分たちの葛藤を中庸しながら、キラキラの夢を与えてくれるような魔法少女をもっと知ってくださいと言いたいと思います。最近もすばらしい作品がたくさんあるのに、「オタクの消費物でしょう」って忌避する人が多いですよね。いや、違いますよ、それは「あなたの物語」なんですよって伝えたいです。